赤子

 ――強くあるなら、ただ鍛錬を積み重ねればいい。余計なノイズは必要ない。

 ――求められているものをこなせば、ライダーになれる。それだけを考えればいい。

 本当に、それだけなのだろうか。
 口を開こうとした瞬間、目の前にいる男の顔がぼやけていく。それにより、才悟はこれを夢だと認識した。

「……朝か」
 差し込む朝日に、思わず口に出してしまう才悟。夢の残滓はいまだに残っており、才悟の身体を重くした。
 汗だくの寝間着を脱いで、いつもの服に着替える。そのまま、いつものように日課の朝のランニングへと出た。
 夏から秋に差し掛かるこの時期、日に日に外は少しずつ薄暗くなっている。あと少しすれば、完全に暗くなるんだろうなと才悟はふと思った。
 と。

「あらぁ~、何でも屋のお兄さんじゃなぁ~い」

 めかしこんだ女が甘ったるい声で呼びかけてきた。美人ではあるが、どこか人の悪さが滲み出ている女は、才悟も見覚えのある常連の依頼人の一人だった。……ただし、厄介な意味で。
 突然呼びつけるのは当たり前、出す報酬も何でも屋なんだしとか財布忘れたとか言い訳してケチる、馴れ馴れしく近づいては色目を使ってくると、迷惑な客として、四人の中ではブラックリスト入りしている女だった。
 さすがの才悟も離れようとするが、それより一歩早く女の方が間合いを詰めてくる。その手に赤子を抱えながらもその瞬発力。もしかしたらライダーに並ぶかも知れないとぼんやりと思った。
 そう、彼女は赤子を抱えていた。まだ生まれたばかりと言ってもよいその子は、今のところは母親の腕の中ですやすやと眠っている。
「丁度良かったわ~。アタシこれから旅行だから、この子預かってくれな~い? 報酬は帰ってきたら支払うから、それじゃあね~!」
 才悟が口をはさむ間もなく言いたい事だけ言って赤子を手渡す女。赤子を押し付けてその場を去る女性――依頼人。
 後に残された才悟は、腕の中でぐずり始めた赤子を下手くそながらも何とかあやしつつ、仮面カフェへと歩き出した。

「で、無理やりその子を押し付けられた、と」
「ああ」
 仮面カフェ。
 開店手前の時間だったので、既に凜花とレオンが店にいた。才悟は事情を話し、丁寧に赤子をテーブルに置こうとする。
「あ、ダメよ。ちゃんと抱っこして寝かしつけないと」
 慌てて凜花が赤子を奪い取り、優しくあやし始める。たまに「よしよし」とか声をかけて、泣きぐずる赤子をなだめていた。ただいつまでもぐずり続けているので、どうも何かを訴えたいようだ。
 凜花もそれを悟ったようで、レオンを呼ぶ。レオンもまた同じように悟っていたようで、右手にミルク入りの哺乳瓶、左手におむつを持って赤子に近づいた。匂いを嗅いで、赤子にそっとミルク入りの哺乳瓶を近ければ、おずおずと受け取ってこくこくとミルクを飲み始める。どうやら、お腹が空いていたようだ。
「げっぷも……ちゃんとしたわね。一応、そこまでのしつけはしてるって事かしら」
 満腹で満足したか、すやすやと寝入る赤子。それを見た凜花はほっとして赤子を抱き直した。

 ――優しい目で赤子を見つめるその姿は、まるで本物の母親のように見えた。

「……」
 才悟には母親はいない。与えられた「使命」のためだけにクローンと言ういびつな形で生まれた「命」。
 そこにはぬくもりはなかった。ぬくもりすら「ノイズ」とされ、無菌室の中で育てられた自分。そんな自分の目の前に、「母親」がいる。
 ……まばゆすぎて、目を逸らした。
 今の凜花は、自分のような存在が見ていい存在ではない。才悟は心の底からそう思った。
(何故だろう。母親は何人も見ているのに)
 極端な話、自分に子供を押し付けたあの女も母親だ。子供を育てながらも、パートなどで家計を支えている強い母親もいる。仮面ライダー屋をやり始めてから、色んな母親を見てきた。それなのに、何故か凜花だけはまっすぐに見る事が出来ない。

「惚れ直しましたか?」

「……!」
 いつの間にか、レオンが才悟の後ろに立っていた。背後を取られたのも驚きだが、何よりも彼の放った言葉の方に驚いてしまう。
「オレが、惚れ直したのか? 皇凜花に?」
 いまいち実感が湧かずに目をぱちくりさせていると、レオンは「ええ、ええ」と笑った。
「魅上さまは、今のご主人様のお姿に惹かれてらっしゃるのですよ。その証拠に、魅上さまは何度もチラ見しておりますし」
「……してたのか?」
「バッチリ、しておられましたよ」
 レオンはくすくすと笑いながら、そっと才悟の背中を押す。そうなる事で凜花との距離が縮んだので、才悟は意を決して彼女に近づいた。
「静かにね」
 凜花の注意に頷く才悟。赤子はすっかり寝入ってしまったようで、ぴくりとも動かない。才悟は改めて赤子を見た。
 ふっくらとした顔に、小さな手足。真ん丸な体。そしてこの世の穢れを何一つ知らないであろう、無垢な寝顔。どれも過去の才悟にはなかったであろうもの。
 それを見て、ようやく才悟は悟る。自分の中にあったのは惹かれる心ではなく……。
「魅上くん?」
 俯く才悟を見て、凜花が心配そうに顔を覗き込む。揺れる眼差しを見て、才悟はぽつりぽつりと自分の中の心……恐れを口に出した。
「オレは、こんな風だった頃はない。この子のように母親に抱っこされた事も、世話を焼かれた事もない。おそらく、こんな風に眠った事もないだろう」
 凜花は無言だ。ただ黙って話の続きを促す。
「そんなオレが、赤子と向き合っていいんだろうか。今のキミのように抱き上げる事が、許されるんだろうか」
 知らず知らずのうちに拳が強く握られる。ただ目的のために生み出された自分にとって、生きるために生まれ、生きようとする命は尊く、守るべきものでありながら、自分にはないものを持つ強い存在に見える。そんな存在を自分ごときが抱き上げていいのだろうか……。
「大丈夫よ」
 才悟の不安を払拭するかのように、凜花がくすくすと笑う。
「生まれが何であろうと、そうやってあなたは自分を振り返る事が出来る。なら、あなたはいいお父さんになれると思うの」
「おとうさん……」
 考えた事もなかった。ライダーとして生まれた自分は、ライダーとして生き、ライダーとして死ぬのだろうと思っていた。そんな自分が、父親になるなんて、一度も考えた事はなかった。だが凜花は、そんな自分でも……そんな自分だからこそ、いい父親になれると断言した。
「さ、抱っこしてみて」
 凜花に促されるままに、慎重に、丁寧に赤子を抱っこする。
 ぬくもりが、才悟の心を満たしていく。自分を信頼し、すやすやと眠る赤子を才悟は心から守りたいと思った。
「どう?」
「暖かくて……力強い何かを感じる。この子を、何があっても守りたい。そう思える、何かが……」
「それを、『愛おしい』と言うのよ」
 凜花が優しく答える。
 愛おしい。初めて感じる心。
「オレは、この子を、この子の笑顔を守りたい。そのためにも、もっと強くなりたい」
 才悟がそう断言すると、凜花は「力も心も強くならないとね」とふんわりと微笑んだ。
 そうして二人は、眠る赤子を優しい目で見つめるのであった。

 余談ではあるが。
 才悟に赤子を押し付けた女は、不倫相手との旅行一歩手前で女の旦那に捕まり、その場で離婚を言い渡されたそうだ。
 それ以外にも共同口座の使い込みなどもあり、慰謝料は取れるだけぶんどられ、親権も父親の方になったらしい。
 不倫相手も速攻逃げだし、全てを失った女は虹顔市を立ち去ったと言う。

 当然、才悟と凜花には何の関係もない話だ。
 しかし、無理やり押し付けられた赤子は、二人の心にささやかながらも変化をもたらした。
 それに気づくのは、そう遠くはない。