カルソナフォンの顔の変わり具合にリタは内心で首を傾げたが、それでも決意は変わらない。例えこの先に死が待っていたとしても、すくんで動こうとしなければ何も変わらないのだ。
雲も流れて動くから天気が変わる。今の状況を変えたければ、動くしかない。
「……鏡の泉へと行くがよい」
カルソナフォンがぼそりと呟く。あまりに重い声だったので、リタは一瞬影人のささやきか何かと誤解してしまった。
彼女の杖がリタから見て左……東辺りを指す。どうやら彼女の言う「鏡の泉」はそこの辺りにあるようだ。渋々そうだが、行き先を教えてくれた彼女に深く頭を下げる。
そんなリタを見て、カルソナフォンの顔がまた哀しい形に歪む。その変化具合に、リタは後もう少しで「どうしたの?」と言って、頭をなでてあげたくなってしまった。
……したら彼女のプライドが許さないだろうが。
こうしてリタは、ビドゥを連れて翌日に「鏡の泉」に向かうことになった。
――しかし、もし出立の日付が2日後だったとしたら、リタはこの場所でジャンゴと再会できたかもしれない。
リタが出発してカルソナフォンが消えた翌日、怪我を負ったままのジャンゴはユキと共にこの影人たちの町へとたどり着いたのだ。
クストースの聖地で、ヤプトが金の鈴を鳴らす。その音色に呼ばれて現れたのは、深海王セレンだった。今は人間態として、優雅かつ美しさを崩していない。
「お呼びですの?」
凪ぎのように穏やかな声も、優雅さを失っていない。そのまま歌を歌わせたら、大海の波を思わせるほどの静かで美しい歌を披露してくれることだろう。
そう。彼女は「唄女」だった。『歌姫』とは違う、歌を唄う者。
深海王としてクストースの一員になる前――人間として生きていた頃は、彼女の歌は海を生きる者たちの癒しであった。彼女も、その癒しであることを幸せに感じていた。
海に呼ばれ、海によって変えられてからは、「唄女」はセイレーンになってしまった。音も何も変わらないのに、魂が変わってしまった以上、もはや癒しはなかった。
それでも、彼女にはまだ一つだけ救いがあった。そして、今もその救いは残っている。
彼女は運命王や仲間の前ではそれをおくびに出さない。かつては人に裏切られ、心に深い傷を持つ彼らに余計な光は必要ない。そう思っているからだ。
不協和音は美しいハーモニーをかき乱し、歌をただの「音のある声」に変えてしまう。それは人と人の関係にもいえる。
セレンにとって、人生は歌と同じなのだ。産声から始まり、さまざまな楽器を取り入れてのオーケストラの中、自分しか歌えない歌を唄う。そして最後に崩れ落ちながら終焉を迎える。
(今回はどんな風に変音するかしら?)
その呟きは心の中に止めておいて、彼女は呼び出した混沌王の方を見る。
彼はセレンの心中を知ることなく――知っていても無視するだろうが――、鈴を仕舞ってから「すみませんねぇ、わざわざ」と適当な挨拶をした。
「ザナンビドゥ君の事はご存知でしょう?」
「ええ。彼を倒した『太陽少年』の事も」
小首をかしげる仕草にも、優雅さと海の匂いは忘れていない。ヤプトはそんな彼女に内心で笑みを浮かべながら話を続けた。
「来るのは『太陽少年』だけではないのですよ。彼の仲間である、『月下美人』と『ひまわり娘』も後々ここに来るでしょう。
私は私で鍵になる『乙女』を逃しましたし、このままでは運命王のお叱りを受けるどころか、神をこちらにお招きした意味がなくなってしまいます。
そこで貴女に、彼らの相手を頼みたいのですが……」
「よろしいですわよ。私がカリフスより先に、彼らに接触いたしましょう」
ヤプトの頼みをセレンは微笑みながら承諾した。快く受け入れてくれた彼女に、ヤプトは心底ほっとした安堵のため息をつく。
そんな彼の顔を見てくすくすと笑いながら、セレンは彼に問う。
――足を魚のヒレへと変え、鯨かシャチを髣髴とさせる深海王の顔で。
「で、私はどちらを相手にすればいいんですの?」
現実は辛く悲しく、夢は儚く淡い。
とかくこの世は生きづらいが、
とかくこの世は死に難い。
スキファとフリウから『話』を聞いたサバタとカーミラは呆然としていた。
――これは私たちの推測。でもほぼ真実に近いと思うわ。
――私たちは、『夢』で全てを知るもの。『夢』が私たちの生きる源であり、知る唯一の手段なの。
――だから私たちは、あの時に全てを知ってしまった。全てを知った上で、貴方と接触したのよ。
スキファにそう言われて、サバタは深くうつむく。全てを知っていた彼女たちを自分は利用しようとしていた。その罪の意識に駆られてしまったのだ。
そんなサバタの肩をカーミラが優しく抱く中、フリウがぼそりと呟く。
――でも、まだ可能性はある。
――全てがなぞられていない今なら、筋書きをひっくり返すことは出来る。
――何より、貴方の弟は貴方が思っているより強い人だから。
「ジャンゴが?」
急に出てきた弟の事に、サバタは少しだけ目を見開く。
確かに話の中心にいるのはジャンゴだ。だが何も知らない彼は、知らないままに『筋書き』をなぞってしまうのではないかと不安だった。
全ての始まりはジャンゴが黒の――暗黒の力を手に入れてから。そこから『筋書き』が始まってるらしい。……いや、その『筋書き』のお膳立てを考えるとジャンゴが生まれた時からなのか。
運命の歯車は勝手に回りだし、ジャンゴを中心として人を勝手に巻き込んでいく。その回転が止まるのは、『筋書き』が終わる時か、それとも世界が終わる時か。
どちらにしても、自分はただ見ているつもりはなかった。彼女たちが言うには、自分がこうしてカーミラと共にいる事も「イレギュラー」らしい。なら、チャンスはある。
「俺達は、どうすればいい?」
らしくはないと思いつつもサバタは双子に問うと、彼女達は首をかしげた。
――さあ……。私達は未来を見るわけじゃないから。
――ただ貴方の好きな風に動けばいい。そういう風にしか言えないわ。
二人の答えを聞いて、バカな事を聞いたなとサバタは自分で自分をあざ笑った。例えどんなことがあっても抗い続け、生き抜くのが自分だったはず。それを他人に聞いたりするなどとは。
どうやら事の大きさに相当動転していたらしい。カーミラがずっと自分の肩を抱いていたのは、そんな自分の動転を察知していたに違いない。
自分は、やれると思った事を、やるべきだと思った事を一つずつやっていこう。
サバタはそう思った。
歌が、聞こえる……。
夢うつつの中、ジャンゴはそう思った。
何の歌なのかは知らない。だが、その歌はとても切なく、とても哀しく、とても辛いものだった。
歌と凍りつく誰かのヴィジョンが、重なる。
ああ、凍りつくあの人は、自分と同じ。亜生命種。
全ては僕が黒ジャンゴへの力を手に入れた時から始まった。出会いも、別れも、自分の心の行く道も、全ては一つに繋がっていく。
その先がどうなるのかは、僕は知っている気がする……。
スキファとフリウと別れ、サバタとカーミラは『シヴァルバー』へと急ぐ。