オードパルファム

 梅雨明けが宣言された最近は、特に暑い。
 当然だが熱中症対策をして仕事をしているのだが、匂いはどうしようもない。伊織陽真が「これはきついなぁ」と匂い消しを買ってきてくれたので、最近はそれをかけて匂い対策もしている。
 そんな暑い日の中。昼飯を食べに、魅上才悟は仮面カフェに訪れた。
「いらっしゃい」
 挨拶をしてくれるのはもちろん皇凛花。カウンターの方では藍上レオンが早速水の準備をしてくれた。
 カウンター席に着くと、すっと差し出される冷えた水。一気飲みしたくなる気分をこらえて、二口だけ飲んだ。
「外暑かったでしょう?」
 凛花の問いに才悟はこくりと頷く。微笑みと共に冷えたおしぼりを出されたので、さっそくそれで首筋を拭いて身体を冷やした。
 と。
 ほのかに漂う柔らかな香り。鼻をひくつかせてもう少し嗅いでみると、柔らかなその匂いはフローラルだと解った。
「ど、どうしたの?」
 さすがに匂いを嗅がれたのが解ったらしく、凛花が少し顔を赤らめて手をひっこめる。匂いの正体が解ったので、才悟はそれ以上匂いを嗅ぐことはなく、「いい匂いがする」とだけ答えた。
 その答えを聞いた凛花は苦笑いを浮かべる。
「匂い消しの代わりにフレグランスを使ったの。汗臭い匂いよりもいい匂いの方がお客さんも喜ぶでしょ?」
「確かに」
 自分も何回か汗の匂いを嗅いだことがあるが、お世辞にもいい匂いではない。それらに囲まれれば、料理の味も悪くなりそうだ。
「本当は料理店で香水はNGなんだけど、今日は新しいフレグランスを買ったから、ちょっと、ね」
 そう言えば、深水紫苑がそのような事を言っていたような気がする。料理は匂いも味を認識させる大事な要素だから、余計な匂いを混じらせるのは駄目だと。
 才悟はまた水を飲む。こっちの水はかすかにレモンの匂いを感じた。
(匂い……)
 自分の腕を改めて嗅いでみる。
 さっきまで暑い場所を走り回っていたからか、汗の匂いが完全に染みついていた。昼飯を食べ終わったら大浴場を借りよう。才悟はそう思った。

「ふう」
 あの後、昼飯を食べ終わった後に1回、トレーニングルームでトレーニングをした後に1回と、2回も大浴場に入った。それだけ汗が気になっていたのだろう。
 さっぱりした身体で廊下を歩いていると、事務室手前で凛花と会った。
「あ、魅上くん。ちょうどよかった」
 何が、と聞く前に、腰のあたりにシュッと何かをかけられた。水鉄砲?と思ったが、彼女が手に持っているのは凝ったデザインの瓶だ。ラベルを見ると、「Eau de Parfum」と書かれている。
「これは?」
「オードパルファム……香水よ。魅上くん、匂いが気になってたみたいだから、こういうのも試してみたらどうかしらって」
「そんなに気になってるように見えたのか?」
「ええ」
 自覚はないが、彼女がそう言うならそうなのかも知れない。思い返してみれば、今日は特に匂いについて敏感な気がしてきた。
 瓶を持たされた才悟は、あたりに漂う残り香を嗅いでみる。植物に詳しいので、一発で何の植物の匂いなのかが解った。
「オードパルファムは、トップ・ミドル・ラストと時間によって香りが変わるの。長続きもするから、朝かけても夕方までは持つはずよ」
「それは凄いな」
「ええ。良かったらこれ、使ってみない?」
「え」
 瓶を持ったまま固まる才悟。こんな凄い物を貰ってしまっていいのだろうか? 上げる、ではなく、使ってみない、だからテスターになってくれという意味だと思うのだが……。
 凛花の方は受け取ったと取ったらしく、くるりと踵を返して仮面カフェの方に戻っていった。

 ライダーステーションから自分の家に戻る。
 さっきかけられた匂いを嗅いでみると、最初にかけられた時と違った香りを感じた。これもすぐにどの植物の匂いかが解ったので、これがおそらくミドルノートというやつなのだろう。
 匂いを嗅ぐたびに、何故か胸が高鳴る。凛花が自分にかけてくれた匂い。
(匂いだけでこんな気分になるとは思わなかった)
 と。
「ただいま~」
 仕事に行っていた陽真が帰って来た。暑い暑いといいつつバッグを玄関に置きっぱなしにし、真っ先に洗面所に飛び込んでいく。
 バッグを拾って彼の部屋に置くと、ドアを開けっぱなしにしているのか、風呂場からもうシャワーの音が聞こえてきた。蒲生慈玄ならちゃんと洗濯機に入れろとかうるさいんだろうなと思いつつ、脱ぎっぱなしのシャツを拾った。

 ……途端に香る、覚えのある匂い。

「え……?」
 改めて放りっぱなしだったシャツの匂いを嗅ぐ。間違いない。自分のそれと全く同じ匂いだ。
(オレだけにかけてくれた匂いじゃなかった)
 使ってみない、という言葉が頭の中でリフレインする。やはりあれはテスターになってくれという意味だったのだ。
 弾んでいた心がしぼんでいく。外は暑いのに、心は何故かひんやりしていくような気がしてきた。
 陽真に声をかけられるまで、才悟は立ち尽くしていた。

 翌日。
 才悟は瓶を手に仮面カフェを訪れていた。
「あら、いらっしゃい」
 凛花がいつもの笑顔で出迎える。しかし才悟はその笑顔を見てると、胸が締め付けられる気がした。そんな彼女から今日は何も匂わない。
 水を出して来ようとするのを手で制し、ポケットから昨日もらったオードパルファムの瓶を出す。
「これを返しに来た」
「え」
 凛花の目が丸くなる。最初は驚きだったそれが、徐々に悲しみのそれになっていくのを見て、才悟はさらに胸が締め付けられる気がした。
「匂いが駄目だったの?」
「いや、匂いは良かった。ラストまでいい匂いだった」
「だったら」
 悲しみの色のままの目が、自分を捕らえて離さない。苦しくなるのをこらえながら、才悟は口を開いた。

「伊織陽真から、同じ匂いがした」

「……!」
 悲しみのままだった凛花の目が見開かれた。その表情を見る辺り、陽真にも同じオードパルファムを渡していたようだ。という事は、あのオードパルファムは自分にだけ渡したものではないと言うことになる。
 自分だけの物じゃなかった。それが何故か心にずしりと来ている。
 オードパルファムの瓶が、ごとりと置かれた。凛花はそれをしばらく見ていたが、「いい匂いだった?」と再度聞いてきた。
「……? あ、ああ、良かった」
「じゃあ、やっぱり受け取ってくれないかしら」
 そっと瓶が自分の方に戻される。蓋に手を触れながら、凛花がぽつりと言う。
「あのね、私、香水って詳しくないの」
 唐突に明かされる彼女の事情。それが今の話とどう繋がるのか解らないが、才悟は黙って続きを促した。
「特に今回は男物でしょ? だからそう言うの詳しい人について来てほしくて、それで伊織くんにお願いしたの」
「伊織陽真に?」
「ええ。魅上くん専属スタイリストって言ってるから、香水にも詳しいかなって思って」
 才悟に向いた香水を探してほしい。そう頼み込んで、探してもらったらしい。だから彼のシャツにも同じ匂いが染みついていたのか。
 これで陽真が自分と同じ匂いを漂わせていた理由は解った。だが、何故そんな事をしたのかという疑問が残る。素直にそれを聞くと、彼女の顔が見る見るうちに赤くなった。
「……それは、魅上くん最近よく言ってたじゃない。匂いが気になるって」
「……あ」
 そう言えばそうだった。
 最近は汗の匂いも気になってくるようになった、と凛花に言ったことがあった。才悟にとってはいわゆるぼやきの一つだったのだが、彼女にとって真剣に取り組む内容だったのだ。
「じゃあこれは、受け取っていいのか?」
「ええ。プレゼントだもの」
「そうか……ありがとう」
 才悟がお礼を言うと、凛花はますます縮こまってこくこくと頷いた。

 そして数日後。
 今日は凛花と一緒に調査の日だ。
「伊織陽真、香水はここに付ければいいのか?」
「おう、そこが一番いい感じだぜ」
 もらったオードパルファムをさっと付けると、最近嗅ぎ慣れてきた匂いがほんのりと漂い始める。
 気合入ってるなと陽真が笑うが、才悟にはよく解らない。もらったものを付ける。ただそれだけだ。だが、付けて行けばきっと凛花は喜ぶだろう。才悟にはその確信があった。
 外に出ると、あっという間に汗が噴き出すほどの暑さが身体を満たす。
 だが漂う匂いは、決して消えることはなかった。