人身事故

『〇〇駅で人身事故があったため、この電車は××駅にて一時停車いたします。ご理解と……」

 電車内で無常なアナウンスが流れる。そのアナウンスに、怒りやら絶望やらのため息があちこちから漏れた。
 時間は7時40分。どうも人身事故は大きなものらしく、ご丁寧に「運転再開までしばらくお待ちください」まで言われてしまった。こうなると、しばらくはこの電車内にいざるを得ない。
「あああ、もう遅刻しちゃうよ……!」
 電車内で女性が泣きそうな声で呟く。本当なら今頃は高塔エンタープライズ本社ビルに着いてる頃なのに、朝の人身事故のせいでこのザマだ。遅延証明書を渡せば遅刻扱いにはならないのだが、だからと言ってこの焦る気持ちが落ち着くわけではない。必死になって勉強し、やっと入った憧れの会社。それなのに、遅刻だなんて。
 電車のドアが開いた事で、何人かは駅に降りていった。ここから別の電車かバス、またはタクシーを使って、会社に行くのだろう。もしくは、遅刻確定と割り切ってどこかで休む事にしたのか。
 女性は電車に残る。まだ「運転再開のめどは経っていない」とは言われていない。なら、すぐに運転再開の可能性もなくはないのだ。それに何より、企業地区駅に止まる電車はこれしかない。下手に降りて迷子になるよりかはマシだ。
 何分待つかな……と思っていたら、隣の青年が「はぁ」とため息を付いていた。私服だがまだ若いので、おそらく学生か。
「電車ってこんなに不便だったんだ……」
 そんな風にぼそりと呟く辺り、本来は電車を使っていないのだろう。よくよく見れば服は高そうな感じだし、いい所のおぼっちゃんなんだろうな、とぼんやり思う。
 時間は無常に過ぎていく。もうこうなったらヤケだと思い、時計を見ている青年に話しかけた。
「災難でしたね」
 声をかけられた方はびっくりして女性の方を見る。一旦辺りを見回したのは、声掛けの先が自分だと確証が持てなかったからか。
「ええ。まさか人身事故に巻き込まれるとは思いもしませんでした」
「ですよねぇ……」
 ここの路線は整備が整ってるからか、人身事故はそうそうない。だが完全にないというわけではなく、ごく稀に事故は起きる。その「ごく稀」が今朝だったわけだ。
「貴方は普段、電車で出勤しているんですか?」
 青年がこっちを見て言う。嘘をつく理由もないので、女性は一つ頷いた。
「車の免許は会社に慣れてからでいいかなーって思ったんですけどね。こうなるんだったら車の免許、大学の時に取れば良かったと思ってますよ」
「そうですか……。でも車は車で渋滞がありますよ」
「それなんですよねぇ。それにガソリン代とかも高くなってるし、だったら電車でいいかなって」
「なるほど……一長一短なんですね」
 青年がふむ、と手を首に当てる。その喋り方は、どこかの誰かに似ているなとふと思った。
 腕時計を見ると、今の時刻は7時50分。もうどうあがいても遅刻は確定だ。部長をはじめとしたみんなはもう集まってるんだろうなと思うと、気が重くなる。
 隣の青年はと言うと、腕時計と見覚えのない機種のスマホを見ながらうーんと唸っていた。それを見て、こっちもスマホでSNSを見てみる。トレンドには既にここの人身事故が上がっていた。
「これは当分電車動きそうにないなぁ……」
「そうなんですか?」
 こっちの独り言に青年が反応した。SNSのトレンド欄を見せると、青年は興味深そうに人々の反応を見る。
「ここだけの路線じゃなくて、いくつもの路線に影響が出てるんですね……」
「多分バスやタクシーの方も混んでるだろうし、渋滞も起きてそうですね」
「そうなんですか?」
「あくまで想像だから、実際はどうなのかは解らないですよ」
「うーん……」
 青年がまた唸る。何を考えているのだろうか、少し気になった。

『そろそろ運転再開いたします』
 アナウンスの内容が変わって来た。時間を見ると、もう8時を過ぎていた。遅刻確定である。
 それを見て、青年と合わせてため息を付いてしまった。
「やっぱり怒られるでしょうか……」
「遅延証明書を見せればとりあえず納得はしてくれますよ……」
 急にぐったりと疲れた気がして、お互い顔を見合わせてため息を付く。
 ただここまで来ると開き直りもあってか、少しだけ気が楽になる。さっき自分が言ったように、咎められたら遅延証明書を見せれば納得してくれるだろう。SNSのトレンドにも上がるぐらいだから、事情は知っているはずだ。
 青年の方はと言うとまだ焦っているのか、ややそわそわした感じがする。落ち着かせようとあえて軽い感じで声をかけた。
「大丈夫ですよ。運転再開のめどが立ったってアナウンスも言ってますし」
「そうなんですけど……」
「こうなると逆にバスやタクシーの方が時間がかかると思うんで、どっしり構えましょう」
「どっしり、ですか」
「どっしり、です」
 青年はそれでやっと落ち着きを取り戻したか、スマホをぽちぽちと動かす。それを見て女性も、同僚に「そろそろ電車動くっぽい」と連絡を入れた。朝礼中ですぐに返事は来ないだろうが、終われば上司に話を付けてくれるはずだ。
 やがて待つこと数分。運転再開のアナウンスと共に、ぷしゅっと電車のドアが閉まる。がたん、と大きく揺れたかと思うと、電車がゆるゆると動き出した。
「結構遅いんですね」
「電車と電車の間を空けて運転してるんですよ。こうやって調整して、どんどん元の時刻表通りに動くんです」
「なるほど……」
 電車好きの友人の受け売りだが、青年にとっては初めて知った事らしく、感心の息をつく。本当に電車について知らないんだな、と女性は思った。
 そして時刻表から約1時間遅れて、ようやく電車は企業地区駅に止まった。降りる人の流れに、女性が入り込むと付いていくように青年も入り込んだ。
「あ、同じ駅で降りるんですね」
「ですね」
 それから先は人の流れが激しく、女性と青年は別れてしまった。
 遅延証明書を受け取る列に並ぶ時、青年もちゃんと並んでいるか気になって後ろを見れば、ちゃんと青年も並んでいるようだった。これなら大丈夫だろう。
 ……と、そこまで考えて、彼女はふと思い出す。
(そう言えば名前、聞いてなかったな)
 聞く必要もないと思って聞かなかったのだが、ここまで来ると聞かなかったのが少し惜しく思える。でもまあ、同じ駅で降りたのだからいずれまた同じ電車で会えるかもしれない。
 その時は満員電車だから話ができるとは限らないけれど。

 会社に着いてからは、上司に遅延証明書を見せて遅刻をなかったことにしてもらった。彼も人身事故の事は知っていたらしく、「災難だったな」と苦労をねぎらってくれた。
 それからは遅れを取り戻すように、いつも以上に働き始める。まだまだ新米なので先輩の後をついていくので精一杯だが、憧れの会社だからそれほど苦にもならない。そんな状態で駆けずり回っていると、入り口で車が止まった。高級な黒のリムジンは見覚えがある。社長の車だ。だが。

 車から出てきたのは、今朝の青年だった。

(え、ええ!?)
 いいとこのおぼっちゃんどころかこの会社の社員。それどころか、社長の車に乗せてもらえるほど地位が高い。内心あわあわしていると、今朝の青年が「社長、到着しました」と中にいるであろう高塔戴天に声をかけた。
「ああ、ありがとうございます。雨竜くん」
(う、雨竜って、最近社長秘書になった、高塔雨竜!?)
 なんて相手と会話してたんだ、と女性は内心頭を抱えそうになった。

 昼休みになり、女性は会社近くの食堂に行く。当然だが、自分と同じ昼休みの社員で店内はいっぱいだ。
 Aプレートランチを頼んで一息ついていると、「ここ、相席いいですか?」と聞き覚えのある声が飛んできた。声の方向を見ると、そこにいたのは高塔雨竜だった。
「う、雨竜さん! どうぞどうぞ!」
 思わず上ずった声で反応すると、雨竜は苦笑いを浮かべながら座る。
「今朝はどうもありがとうございました」
「い、いえ! こちらこそ、社長秘書だと気づかずに横柄な態度を!」
 今すぐ土下座か、穴を掘ってそこに入りたい。何も知らないとは言え、社長秘書である青年に対して相応しくない態度で接してしまったのだ。しかし雨竜は苦笑いのまま「別に気にしてませんよ」と言う。
「それより、電車について色々教えてもらってありがとうございます。僕は電車にはあんまり縁がないから、こういう時にどう対処すればいいのか解らなかったので……」
「はぁ……」
 確かに。普段は社長と共に車で移動するのがメインだろうから、そうそう電車に乗る事はないだろう。なら、何故今日に限って電車だったのだろうか。
 女性の疑問に気づいたか、雨竜の苦笑いが少し変わる。
「色んな移動手段を試してみたかったんです。車との違いも知りたかったので」
「なるほど……」
 そう言う事なら納得できる。車のメリットデメリット、電車のメリットデメリット、両方知っておいて損はない。でも今朝に限って電車最大のデメリットである人身事故によるトラブルが降りかかってしまった。そう言うわけなのだろう。
「今度はもっとゆっくりと乗れる時間に乗れたらいいですね」
 思わずそう言うと、雨竜も「僕もそう思います」と笑った。
 自分より年下らしい、さわやかな笑顔だった。