Change Your Way・25「欠けるもの。欠けたもの」

 何とか逃げ出すことに成功したジャンゴたちはそのまま走る勢いを落とさずに、近くにあった林へと飛び込む。
 相手が空間転移を使えるので無駄かもしれないが、一応辺りを見回して追っ手がいないことを確認すると、ようやくジャンゴはペースを落とした。
「……あのさ、僕走れたんだけど」
 左隣からのツッコミで、やっとジャンゴは今までユキを抱えて走っていた事を思い出す。荷物を下ろすようにユキを下ろすと、彼は体の節々を動かすために大きく伸びをした。
 いつの間にか、手に持っていたハンマーは片手で振り回せるほどのサイズに縮んでいる。さっきちらりと見た時は両手でないと持つことも出来そうにないくらいの大きさだったが。
「ユキが、さっき援護してくれたのか?」
 そう聞くと、ユキはこくんとうなずいた。
「あのままじゃジャンゴさんやられると思って。……もしかして、ダメだった?」
「あ、そんな事はないよ。ありがとう……」
 小さい彼が“力”を振るったことに、ジャンゴは少し顔を曇らせる。助けてくれたのは嬉しいが、彼の力はあの「舞比滅」と同じ力だ。どうしても、彼女と被ってしまう。
 勿論、こんなことをユキに言えたものではないが。
 ジャンゴはふうとため息を一つついて座り込んだ。しかし一回座り込んでしまうと、今までの疲労で立ち上がるのが面倒になってくる。
 先を急ぎたいのだが、棒のようになった足はそうそう言う事を聞いてくれるとは思えなかった。隣のユキも力を使ったせいなのか、やけにぐったりしているように見える。
 仕方ないので、このまま一時休憩を取るしかないようだ。開き直って横になってしまうと、待ってましたとばかりに睡魔が彼を襲ってくる。
(……ヤバイって……)
 今ここで眠ったら、ユキを一人にさせてしまう。
 くっつきそうになるまぶたを何とか抑えていたが、やがてジャンゴは寝息と共に眠ってしまった。

 

 始まりは何だったんだろう。
 今では自分も思い出せない。
 ただ一つ言えたのは、僕の狂乱が一つのきっかけだったんだと思う。

 あの時、ダークマターの暴走に耐え切れなかった僕を助けたのは、兄さんとリタだった。
 人の憎しみが、恨みが、妬みが、僕の中にあった闇を引きずり出し、狂わせた。

 狂いはやがて表に現れ、人が『望む』バケモノの形に、僕はなりそうになった。

 兄さんは命を懸けて自分の中に僕のダークマターを受け入れ、
 リタは人に手をかけようとしていた僕を必死になって止めてくれた。
 その時は、それでよかった。

 だけど、
 今にして思えば、
 僕は狂ったままの方がよかったのかもしれない――。

 

 深い木々の中を、リタはビドゥと共に歩いていく。
 カルソナフォン曰く、あの影人たちの街から離れた森を抜けると小さな社があるらしく、その近くに「鏡の泉」がある洞窟へと行けるらしい。
 リタはその言葉を信じて、森の中を歩いていた。迷いやすい森ではあるが、リタにとっては自然の中はテリトリーの一つ。安らぎはあっても不安はなかった。
 食べられる草をより分け、火を起こしてあぶって食べる。水は朝露などや偶然見つけた小さな川などに頼り、寝床は落ち葉を集めてその場をしのぐ。
 いざとなればトランスで半ヴァンパイアになって駆け抜ければいいので、道中で困る事はあまりなかった。困ることと言えば、道が確かなのかという不安か。
 ビドゥは犬ではないので、匂いなどを頼りに道を選り分ける事はできない。ほとんど自分のカンが頼りだ。今のところは、正しい道を歩いているようだが…。

 にゃーん

 ビドゥが気まぐれに鳴く。
「お腹が空いたの?」
 リタが聞くと、ビドゥは「その通りだ」と言わんばかりにもう一度鳴く。日が見えないので時間がわかりづらいが、どうやらご飯時らしい。
 ふと後ろを見やると、自分の歩いてきた跡はほとんどないが、大分進んできたことは解った。カルソナフォンは「かなり遠い」とは言わなかったので、もうすぐ抜けられるかもしれない。
 ビドゥのご飯を用意しながら、リタは『シヴァルバー』から抜け出す時に見たあの幻を思い出した。どこかで見たことのあるような、それでいて初めて見たような人の幻。
(少なくとも、あれは精霊ではなかった)
 それだけは断言できる。精霊体を感知できる彼女の心は、あの幻を精霊体とは全く違うものと認識していた。
 なら影人のような幽霊に近い存在――亜生命種なのだろうか。それも違う、とリタは思った。
 影人たちは存在感がまるでなく、本当の幽霊のように思えたが、あの幻にははっきりとした存在感があった。姿がはっきりと見えてたなら、リタは間違いなく生きている人間だと思っただろう。
(でも、生きている人間じゃなかった。だって……)
 脳裏に浮かぶ、あの時に見た幻。

 それは、確かにジャンゴに似ていた気がした――。

 運命王は『シヴァルバー』へ戻ってきた。
「お帰りなさいませ」
 形ばかりのヤプトの挨拶は無視し、彼女は自分の椅子の頭上にある水晶像に向って深々と頭を垂れる。
 像はそこにあるだけで、彼女に反応して動いたり呼びかけたりはしない。それでも彼女は深々と頭を垂れていた。答えを待つ子供のように。
 しばらくの間、時間が止まったかのように誰も動かない。沈黙だけが空間を浸していた。

 ――きらりと水晶像が光った。

 運命王と『生贄神』の意思の疎通に、ヤプトの眉がピクリと上がる。元々水晶像――生贄神と疎通が出来るのは運命王だけだということは知っていた。だが、今の反応はそう言うものとは違っていた。
 彼女の方はヤプトのことなど気にも留めずに――全神経を生贄神との疎通に集中しているのもあるが――、生贄神の『言葉』に耳を傾けているが、しばらくして顔を上げた。
 ヤプトに視線を向けると、彼は最初何を言いたいのかが解らずに首を傾げたが、すぐに懐から鈴を取り出して鳴らす。
 今回現れたのは飛天王カリフスだった。
「お呼びでしょうか」
 巌のような外見を裏切らない重苦しい声に、運命王は一つうなずく。
「浄土王ザナンビドゥ、深海王セレンがやられ、『舞比滅』ミホトシロノも今は動けぬ。そなたに一働きしてもらうぞ」

 セレンが『浄化』され、サバタたちはやりきれない思いを抱えたまま劇場を出た。
「貴方たちはこれからどうなさるんです?」
 カーミラがリリスとヴォートに聞く。リリスはともかく、ヴォートはまだセレンが目の前で『死んだ』事にショックを受けているようだ。
 それでもあえてカーミラが聞いたわけは、彼女らをこれ以上巻き込むつもりはないからである。下手にずるずると一緒に行動させて、事の中心に入ってしまうと困るのだ。
 サバタはずっと赤い宝珠――本能の宝珠を眺めている。さっきカーミラが「ジャンゴさんが持って行った宝珠と同じ力を感じる」と言ったので、そこから何か手がかりを得ようと必死なのだ。
 とりあえずサバタはそのままにしておいて、カーミラはリリスたちを見つめ続ける。「ついて行きます」と言い出したらどう断ろうかと思いながら。
 だが。
「私は、一族の所に帰ろうかと思います」
「……僕も、家に帰ります」
 思ったよりあっさりと、二人はここで別れることを告げた。そのあっさりさに、サバタも顔を上げる。
 ヴォートはもう落ち込んだ顔をしていなかった。むしろどこか晴れやかな顔で、「セレンさまの歌を聴けただけでよかったんですから」と言う。
「……無理してません?」
「いえ。今は本当にそう思ってます。あの人の歌は僕に光をくれた。『歌姫』や『唄女』だけに限らず、それって素晴らしいことじゃないですか?」
 にっこりと笑う。その笑顔は、今まで見たことがないくらいに明るく清々としていた。どうやらヴォートにとって、深海王セレンとの出会いは悪いことではなかったらしい。
 憧れの人の死を間近で見てしまったものの、逆に彼女の暗黒面を余り見ずに済んだのだ。それはそれで幸せなことかもしれない。
 リリスの方に目をやると、「私は『唄女』を探すのが目的でしたから」と簡単に答えた。
「あのひまわり娘と、杖の精霊――セイによろしくお伝え下さい」
 彼女の方は手短に別れを告げる。サバタとカーミラもあまり彼女と面識がないので、適当にうなずくぐらいしか出来なかった。
 そのままリリスとヴォートは、サバタとカーミラと別れてそれぞれの行くべき場所へと去っていく。しばしの間、共に過ごした仲間の後姿を、二人は見えなくなるまで見続けていた。
 物騒な世の中なので、彼女らの帰り道が少し心配だったが、後は追わないと決めていた。彼女らには彼女らの事情があるし、それは自分たちも同じだからだ。
 さて、これからどうするか。
 口に出しては言わないものの、サバタとカーミラは同じ事を思っていた。
 とりあえず手がかりになりそうな「本能の宝珠」を手に入れたが、実際にこれはどうやって他の宝珠と反応するかはわからない。ジャンゴが近くにいれば光るのだろうか。
 適当に日の光にすかしてみたりしても、宝珠は普通の宝珠として光るだけで何の反応もない。
「サバタさま、私にも」
 カーミラにねだられたので、サバタは本能の宝珠を黙って手渡した。受け取ったカーミラはただ手に取るだけで何もしない。――見た目上は。
(……でも、言われないと分からないものだな)
 サバタは今頃になってそれを自覚した。
 自分は、けっこう人の事を理解していない。その割には自分の筋書き通りに人が動かないと納得しない、難儀な性格のようだ。
 だから、あの時連携が上手く取れなかったのだ。カーミラが勝手に行動して、自分は気が動転していた。それに気づかなかったのは、人形として生きているのではなく、人として生きているから。
 人は不完全な生き物だ。だからこそ、愛し合うのかもしれない。例えそれが人ならざるものであっても。

 長いマフラーをたなびかせ、サバタは海の匂いがする劇場を後にした。
 その後ろに、自分の魂の欠片そのものである女性を連れて。