全てを操り、導く月の力。
慈愛と狂気を持つ月の力。
だからこそ、その心は常に不安定で、さ迷う。
月光仔の一族は、迷いの一族。
寒い。
それが一番の感想――そういう風に思いたくないが――だった。
寒くて、暗い。
ここにいると、嫌な事ばかりが思い出される。
悪い事しか思い浮かべなくなる。
痛みしか、感じられなくなる。
それが、絶対存在の中だった。
わたしは、わたしでいたい。
虚空の中、それだけを投げかける。
答えは、当然来ない。
それでも、凍りついた地獄の中で、それだけを投げかける。わたしは、わたしでいたい。わたしをとらないで。わたしをけさないで。わたしをなくさないで。
――わたしをわすれないで。
そうだ。
わたしをわすれないで。わたしがいたことをわすれないで。わたしとのおもいでをわすれないで。
凍りついた地獄の中に、もう一つ投げかけるものが出来た。後はもうただがむしゃらにそれを投げつけるだけだ。わたしは、わたしでいたい。わたしをわすれないで。
それでも絶対存在はそれすら食いつくし、虚無の中に消し去っていく。美味しいものは最後まで取っておきたいのか、自分の意思だけは手を付けられていない。
月の力は全てを操る、だなんて嘘つきだ。全てを操れるというのなら、今自分を食おうとしているこいつは、何故操れないのだろうか。こいつは絶対存在だからか?
……それとも、自分は月下美人の資格がないからか?
そもそも、月下美人になるために必要なこととは何だろう。慈愛と狂気を持つ、それが唯一の条件だといわれているが、その条件を満たす者など掃いて捨てるほどいるのではないか?
自分が月下美人になれる資格があったのは、もっと別のものがあったからではないのか? なら、それは何だ?
わたしは、なんなのだ?
今まで投げかけていたものが、一気に崩れる。でもそれに気づかなかった。気づくことが出来なかった。
その問いは、この中に放り込まれる前から抱いていたものだったから。
――ねぇ、ボクはなに?
どうなるか、解らんぞ。
それがそのプランを始める前の、おてんこさまの言葉だった。
「意識をきちんと持て。自分が自分である、と自覚しないと、大いなる力に飲み込まれるぞ」
「よく解んないんだけど…」
「ジャンゴも、そう言った」
おてんこさまはそういい残すと、シャレルの腹に飛び込んだ。
同時に灼熱の塊を飲み込んだかのような息苦しさが、シャレルを襲う。思わず腹を押さえてうずくまるが、それだけで苦しみが消えるわけではない。
目の前にいるスレードゲルミルやそれに取り込まれた従姉のことを綺麗さっぱり忘れ、ただ圧迫感などの苦しみから耐え抜こうとする。吐きそうなくらいだったが、実際に吐くことはなかった。
父は、この苦しみに耐え抜いて見せたというのか。
(これ、ボクには無理だって!)
つい心の中で弱音を吐いてしまう。自覚うんぬんかんぬんより前に、息苦しさで窒息死しそうだ。いっそ、この意識を手放してしまおうか。
このまま死んでしまうのも、悪くはないかもしれない。従姉がすぐに後を追ってきてくれるだろうから、寂しくはない。一人じゃないのだから、死んでも寂しくない。
――ほんとうに? ほんとうにさびしくないの?
かすかに、自分とは違う声が聞こえる。
ほんとうにさびしくないの、と。さびしいんじゃないの、と。
(ボクは……)
反論しようとして、言葉に詰まる。寂しくないのと寂しいのとを分ける何かは、何なのだろう。それが、自分を自分たらしめるに必要な何かじゃないのだろうか。
息苦しさは、ますます強くなっていく。このままでは窒息死は確実だ。
(どうにかしないと……)
息苦しさの果てに見えるのは、自分の死か、それとも……。
ぽたん
「…うっ……!」
何かが滴り落ちる音で、消えかけていた意識が元に戻った。
最初汗が滴り落ちたと思ったが、目の方にたまった雫から自分は泣いている事に気がついた。何故かは解らないが、自分は泣いている。
ぽたぽたと落ち続ける涙を見ていると、何かも一緒に流れていくような気がした。
これは涙。自分は泣いている。
自分は自分が消えそうになっているから、泣いている。
ジャンゴも、サバタも、シャレルも、レビも、消えそうになっているから泣いている。
僕は何?
俺は何だ?
ボクは何さ?
私は何なのだ?
解らない。
だけど……
――だけど、守らなきゃいけないものがある
自分自身で決めたもの。
自分が『守りたい』と思ったもの。
自分にとってはかけがえのないもの。
家族、親友、仲間、故郷、そして……
僕は彼女の笑顔を
俺はあいつと交わした約束を
ボクはあの子の心を
私は彼との少ない想いでを
「――守る!」
その時、原種の欠片が鳴いた。
「くぁっっ!!」
身体の中から何か熱いのが吹き上がったかと思うと、ジャンゴはソルジャンゴへと変身していた。
「え?」
思わず、変化した自分の身体をまじまじと見てしまう。太陽の化身は古の大樹の力と、太陽の精霊の力によって誕生する事が出来るが、今はその太陽の精霊――おてんこさまがいない。
古の大樹の力だけで太陽の化身にはなれない。太陽の精霊と並ぶほどの太陽の力を持つ何かが、今ジャンゴに力を貸したとでもいうのだろうか…。
(太陽樹が、僕に力を?)
娘とのリンクを可能にしたあの樹なら、古の大樹と共に力を貸してくれてもおかしくない。…いや、今まで何とかしてくれたのは太陽樹ではなく古の大樹なのかもしれない。
とにかく、ソルジャンゴになった今ならヴァナルガンドと対抗できる。ジャンゴは改めてサバタの方を向いた。
……向いたのだが、ヴァナルガンドは全然動かない。かすかにあちこち震えているのだが、大きく動いてくる事はなかった。
迷いとも恐れとも違うその震えは、中からの抵抗に抗っているような感じに見える。という事は…。
「兄さん!」
声をかけると、ヴァナルガンドと一体化していたはずのサバタが大きく抜け出し、ジャンゴの元に転がり込んできた。
身体こそぼろぼろそうだが、その目にはしっかりとした意思が宿っている。ヴァナルガンドと融合する前は、あんなにも揺らいでいた光が、今はもうない。
もうサバタは大丈夫だ。上手くは説明できないが、迷いを振り払って自分なりの答えを見つけてきたらしい。
後はヴァナルガンドをどうにかするだけだ。
――父様
「え!?」
急にシャレルがリンクしてきた。
戦闘中にいきなり…とは思うが、そっちではどうなのか解らないのであえて黙っておく。ただ、相手の真摯な声を聞く限り、そっちも戦闘中のようだ。
――父様、そっちでも原種の欠片がいるんだよね?
「そっちでも」の一言に驚きそうになったが、ヴァナルガンドの攻撃によりそれは引っ込んだ。「そっちでも」という事は、シャレルたちの前にも原種の欠片が立ちはだかっているという事だ。
自分が前に抱いた悪い予感が当たっていた事に、肩を落としそうになるジャンゴ。だが、彼女の次の一言にまた驚きそうになってしまった。
――出来たらさぁ、その原種の欠片を元に還してやれないかな?