でも俺は純真さを感じる
俺の一部は奪われるが
手放すつもりはない
ムスペルの亡骸を見つめる『サバタ』の目には、同情も哀れみもなく、純粋にその存在の境遇を悲しんでいる色があった。
サバタには絶対生み出せない表情。サバタには難しい感情。
(何故そう思える? 何故そんな顔が出来る?)
動揺する心を静めようとするが、ますます思考は混乱していく。考えれば考えるほど袋小路にはまり、サバタはその場にうずくまってしまった。
痛む。体のある部分が、音を立てて痛む。
その場所は、かつて自分が封じ込めた場所。人形として生きていた頃、よく痛んだ場所。――それは胸の奥。
この痛みは何だ? 何故今更痛む?
自分は人形をやめたはず。カーミラを失い、ジャンゴと戦い、全てに終わりを告げられた時に自分は人形である事をやめたはず。
人形なんかじゃない。ヘルやダークの手駒なんかじゃない。自分はサバタ。太陽少年ジャンゴの兄。暗黒少年であり、月下美人。
限りなくイモータルに近い存在ではあるが、自分は人間だ。意志ある人間だ。なのに、何故。
――自分は心のない人間とでも言うのか。
「違う! 俺は人間だ!! もう人形なんかじゃない!」
湧き上がる不安を振り払うかのごとく、サバタは叫ぶ。しかし、その叫びに答える者など当然いるわけもなく、空しい余韻を残して消えていく。
その瞳から、ひとしずく涙が零れることでサバタの心はかすかな安寧を感じた。
ほら。自分は泣けるじゃないか。
意思のない人形が泣けるものか。
冷たい人形が、暖かい涙など流せるものか。
「……ふっ、何をしているんだか……」
涙は、サバタにいつもの皮肉な笑みを浮かべさせるまでの安らぎを与えてくれた。震える足を無理やり押さえてゆらりと立ち上がる。
もう『サバタ』とおてんこさまの気配はどこにもない。意外性が大きかったが、彼に近づいてみたのは悪くはなかった。手がかりらしいものは何一つ得られなかったけど。
さて。これからどうするか。
『ジャンゴ』と会い、リタと会い、『サバタ』と会い、カーミラとも会っている。一応、自分の過去で何らかの鍵を持っていそうな人物とは全員会った。
だが、この世界から抜け出す手がかりらしいものは手に入らず、代わりに自分の心と向き合い続けるハメになっている。
矛盾? いや、これが自分の夢の中なら納得がいく。
これは、巡礼の旅なのだ。今まで人形として避け続けてきた自分の罪を認め、罰を受けるための。最初、サン・ミゲルを出た時は確かにそう思っていたはず。
現実と精神世界の違いとは言え、こうして望み通りの巡礼の旅をしている。それの何が悪い? それのどこに問題がある?
不安はない。悪くもない。だが、何かが引っかかる。どこかが悲しく痛んでいる。内側から何かがこじ開けられていくような痛み。
堅い扉。決して開くことのない扉。
その扉を開けたらどうなる?
サバタの心にぽつんと生まれた疑念は、墨を落としたかのように少しずつ広がっていく……。
どうやって出たのかは覚えていない。どうやって底まで言ったのかも覚えていない。もしかしたら空間が歪んで、放り出されたのかもしれない。
とにかく気がつくと、サバタは日を望む広場に立っていた。
空を見上げると、太陽都市が浮かんでいるのが見える。空を飛んだり、何かの力で転移しない限りはそこまで行けないが、今のサバタはなぜか行けると思った。
シャッターを押すように、今の場所が切り換わる。もう立っている場所は太陽都市の端の端だ。太陽風のトラップはマフラーをたなびかせるだけで、何の力もない。
一歩一歩今いる自分を確認するかのように、サバタは先に進んでいった。
現実世界では、まだサバタは眠り続けていた。
ソファで眠る彼を発見してから丸二日。その間サバタは何も食べず何も飲まずにただ眠り続けている。それなのに、体の異常は全くないのだ。
薄ら寒くなったジャンゴは、ザジだけではなくおてんこさまにも彼を診せた。
「ザジが言うには、ずっと夢の中に閉じ込められているらしいけど……」
「確かに、ザジの言うとおりだ。だが……」
「だが?」
ジャンゴが聞くと、おてんこさまは渋い顔で「イモータルが関わっている」と答えた。
「そんな! イモータルがなぜ兄さんを!? っていうかいつの間に!?」
唐突に言われたその一言に、ジャンゴは半分パニックになった。確かに兄はダークの意志に逆らった暗黒仔。だが、そう簡単に兄がやられるとは思いたくなかった。
もちろんおてんこさまも、サバタがやられるとは思っていなかった。が、現実にサバタを取り巻く香りはイモータルのもの。太陽と月、暗黒が入り混じったサバタ特有の匂いはなかった。
しかしだな、とおてんこさまは思う。
なぜサバタなのか。なぜジャンゴを狙わずに、サバタを狙ったのか。それが分からなかった。
サバタは暗黒の力を注ぎ込まれたダークの手駒・暗黒仔。だが今は月下美人として、暗黒の力をもコントロールしている。イモータルへと変わる事はないだろう。
彼が裏切り者だからか。いや、裏切り者には死をなどと言う感覚はイモータルにはない。元々不死を演じる種族は死を望めないからだ。
おてんこさまがあれこれ考えていると、ジャンゴはサバタの部屋を飛び出してあれこれ準備し始めていた。イモータルの話を聞いたので、退治しようと思っているのだろう。
慌てておてんこさまはジャンゴの元へと行く。今は昼過ぎていて、どこに行くにしても日没は免れない。それに今回は、普通のイモータルではない。
「ジャンゴ。お前、イモータルがどこにいるのか分かっているのか?」
「え? 分からないよ。でもこの近くにいるんじゃない?」
あまりにも行き当たりばったりなジャンゴの返答に、おてんこさまは深々とため息をついた。まあ、断片的な話を聞かせればこうなるのは目に見えてたが。
「イモータルは、サバタの夢の中にいる」
――あの人は何を望んでいるの?
――……人類の消えた楽園に、住みたいと思っているのよ。
――一人だけで?
――違うわ。あの人が閉じ込めている人と共に過ごしたいのよ。血塗られた庭園で。
誰もいない楽園で。
――……まるで私と同じね……。
サバタの足は、着実に太陽都市の中枢、そして最上階へと向かっていた。
いつもなら暗黒転移を使って真っ先に最上階に行くのだが、精霊体である今は地道に歩いていくしかない。道が分かるかと言う不安は歩いているうちに消えていった。
最上階。
そこにはカーミラがいるはず。
もう一度会いたいと思った。会わなきゃいけないと思った。この世界から出るため。――扉を開くため。
(扉、か)
幼い頃には恐怖の対象だったモノ。暗黒転移が使えるようになってから――人形になってからは何一つ恐怖の対象ではなかったが、それでも今は別の意味で恐怖だ。
だが恐れてはいけない。開かない限り、永遠に閉ざされたままだ。自分も、世界も。
そう思いながらも、サバタはしかしだなとも思う。
この世界でのカーミラとの再会は、本当に自分の『扉』を開くためだけのものなのか。夢と言う名の檻の中で、自分に対する罰だけなのか。
本当に連れ戻す事は出来ないのか。ただ、黙って浄化されるのを見ていろと言うのか。
例えそれが全ての始まりだとしても、本当にそれでいいのか?
(……始まり? 全ての? どういうことだ?)
唐突に脳裏に浮かんだ思いに、サバタの足が止まった。
カーミラが浄化された後、彼女の魂はダークマターと共に自分の体に宿った。それからサバタは彼女を蘇らせる方法を捜し求めている。
確かに始まりは彼女の浄化からだ。だが、脳裏に浮かんだ『始まり』はもっと別の意味を指しているように思えた。もっと薄暗い、何か……。
――例えば、世界の消滅とか。
「!」
そう思った瞬間、サバタの体は完全に硬直した。
「ようやく気づいた?」
そのサバタを祝うかのような、後ろからの声。振り向くとそこには『ジャンゴ』がいた。……そして、自分は中央広場に立っていた。
ジャンゴが嘲う。
「君の望み。それは世界の消滅。
人の消えた楽園で、君はあの少女と共に生きたいのさ」
その顔は、紛れもなく完全なる暗黒仔のものだった。
……かつてのサバタが浮かべていた顔そのままでもあった。
扉は固く軋んで悲鳴を上げる。
未だにその扉は開け放たれることはない。
彼女は、扉の向こうにいるのか?