「……ん」
日の光を感じて目を開くと、窓から差し込んでいる光が飛び込んできて、ジャンゴはまた目を閉じてしまった。もう朝か、と思い頭を振って眠気を追い払う。
だんだんと意識がハッキリしてくる中、ジャンゴはとあることに気がつく。
窓から差し込んだ光は、ジャンゴの部屋とはまるっきり角度が違っていた。
だとすると、ここは宿屋なのか。いや、それでも角度が違う気がする。そう思ったジャンゴの鼻を、独特の香りがくすぐった。甘い、花とは違う甘い匂い。
(柑橘類? ……ううん、果物)
その言葉が脳裏に浮かんだ時、ジャンゴの出した答えを祝福するかのように、扉が開いた。
「あ……、おはようございます」
「え……?」
間抜けなことに、ジャンゴは朝の仕入れに行っていたリタと一分近く見つめ合ってしまった。
……正直、頭の中が混乱している。
出された食事は全部食べたが、どんな味なのかさっぱり分からなかった。舌や胃が拒絶反応を起こさなかったので、まずい食事と言うわけではなかったようだが。
どうして、自分はここにいるのか。
どうして、こうなってしまったのか。
その疑問が渦を巻き、ジャンゴの頭をかき回していた。目の前にいる少女に聞きたい衝動に駆られるものの、聞いてはいけないと理性が鋭く警告する。
自分で焼いたであろう目玉焼きを飲み込んでから、リタは当たり障りのない話題を持ち出してきた。
天気の話などに軽く相槌を打ちながら、いつかはこれが日常になるのかなとジャンゴはぼんやりと思った。
日の光に照らされて目が覚め、愛する人の手料理を食べながら今日の予定について語り合う。命がけの仕事を片付け、終わって帰れば笑顔と暖かくした家が待っている。
ふざけあいながらも確かな幸せをかみ締める、そんな普通の日常。
……今のジャンゴにとって、恐ろしいまでに遠く感じる日常。
そう思うと、今手の中にあるカップの中のココアが、急に暖かい人の血のように感じた。
「……っ!!」
思わずカップを落として中身をぶちまけてしまうジャンゴ。幸い、落ちたのは床の上なのでココアの熱で誰もやけどすることはなかった。
「ジャンゴさま!?」
「ご、ごめん! 拭くものない?」
慌てたジャンゴに、リタも慌てて布巾を手渡す。いまだ熱を持ったココアで火傷しないように拭いていると、鋭く割れたカップの欠片がジャンゴの手を切った。
「痛っ」
普段ならなんともない傷の一つだが、ついた場所がいつもソル・デ・バイスをつけている右手だった。久しぶりの右手の怪我に、ジャンゴはつい傷口を口に含んでしまう。
舌に乗った自分の血の味は、鉄サビめいた味で美味だとは感じられなかった。
でも、他人の血の味なら?
かたん、と歯車の動きを止め続けていた楔が外れた。
歯車が今まで止まっていた分だけ早く動くように、途切れ途切れだった記憶が次々とフラッシュバックしていく。
責め苛まれる幻夢から逃げた午前、太陽樹に醜く八つ当たりした午後。新月の魔力に狂いそうになった夜。
狂牙にかけそうになった一人の少女。
「う…うあああああっ!!」
ジャンゴは叫んだ。喉から絞り出される声は、ちょうどエターナル事件の頃に力を制御できずに暴走してしまう時に上げた声に、よく似ていた。
狂気と理性の狭間で叫び続ける少年をその腕の中に収めながら、リタはどうしてこうなってしまったんだろうと考えていた。
この人はただ、全てを守りたいだけなのに。
自分が死にかけようとも、みんなの幸せを願っているだけなのに。
彼が半ヴァンパイアとなったから受ける罰なのか、それとも彼がガン・デル・ソルを受け継いだ時からこうなることが運命付けられていたというのか。どちらにしても、リタには納得できなかった。
(リンゴ様も、人が悪すぎます)
己の意思と道を受け継がせた少年に、あのような仕打ちをしてあれっぽっちの遺言だけを残していった。明日もまた日は昇る? その一言で息子たちの心全てが癒されるとでも?
一言も「すまない」と言わずに去った伝説のヴァンパイア・ハンターに、リタは心の中で毒づいた。
……結局、ジャンゴが果物屋を出たのは午後だった。
果物屋からまっすぐ家に帰ってきたジャンゴは、兄から不審の目を向けられた。が、それに構っている心の余裕はなかった。ふらふらと部屋に戻ろうとする。
「ジャンゴ」
ぼそりとした兄の声に、ジャンゴは石化したように足を止めた。
「独りよがりでいるなよ?」
こうなのだ。
いつも兄は自分の心の裏を見抜くような言葉を与える。それは自分より先に、闇に心を浸してしまったからなのか。
見透かすような言葉は、今のジャンゴにとっては鋭い剣そのものだった。
ジャンゴは兄から逃げ出すような形で、自分の部屋に篭った。
無機質な椅子に、ジャンゴは一人座っていた。
「この子は人間でも、ヴァンパイアでもない特殊な子です」
無機質に、自分を説明する誰かの声が聞こえる。
自分はここに隔離されたのだ。生命種でも反生命種でもない自分は、世界からはみ出されてこの白い檻の中にいる。実験動物としているのではなく、見せ物としているのではない。
ただ『世界からはみ出た』から、ここにいる。
「この子の居場所は世界のどこにもありません。ですから、ここに存在しています」
ここ。白い檻の中。
その中では食事はきちんと出されるし、ジャンゴが望めば運動させてもらえる。欲しい物は、無理なものでない限りほとんど与えられる。
でもそこにいること自体、一つの烙印を押されたも同然だった。
「この子に触れてみたいのなら、どうぞ。ただし、外に連れて行ってはいけません。この子は世界に生きることを許された存在ではありませんから」
「そんな事はありません!」
凛とした声が白い檻全体に響き渡る。そして、差し伸べられた手。
ジャンゴはその手が取れなかった。にもかかわらず、声は急かすように彼を呼ぶ。
「ジャンゴさま、帰りましょう。サン・ミゲルへ」
「ジャンゴ、こんな所で何をしている」
「あかん、あかんで。こんな所で腐ってたら」
「お兄ちゃん、一緒に行こうよ」
「ジャンゴ、ここにいたらリンゴに悪いだろう」
「ボーイ、ここはお前さんの居場所じゃないぜ」
「サン・ミゲルに帰ろう、ジャンゴ。私達が待っている」
「ジャンゴ君、遠慮しなくていいのよ」
「ジャンゴ君!」
「坊主!」
「少年!」
僕を呼ばないで。僕に優しくなんかしないで。僕を甘やかさないで。僕に手を差し伸べないで。
サン・ミゲルなんか帰りたくない。あんな優しい場所には帰れない。名前を呼ばれるたびに、僕は独りきりでいなければいけないことを思い知らされてしまう。
「ジャンゴ!」
「ジャンゴさま!」
「お兄ちゃん」
「ボーイ!」
「ジャンゴ君」
「ジャンゴ!」
やめて。もうやめて。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
「僕は、もう人間じゃないんだよぉ……っ!」
「…もうやめてよぉ……」
震える自分の声で目が覚めた。頬に手を触れなくても分かる。自分は泣いていた。
拭くのも億劫になって流れるままにしていると、誰かがいるのに気がついた。視界が涙でぼやけているが、近くにいるのがザジだというのは分かる。
さすがに人の目の前で泣いたままというのは気恥ずかしいので、慌てて身体を起こして涙を拭く。
「大丈夫なんか?」
「あ、うん」
寝言も聞かれたのだろうか。ジャンゴはつい顔を赤らめてしまった。そんなジャンゴを見て、ザジは薄く笑った。
「…何しに来たの?」
つい思ったことが口に出る。その問いに、ザジは椅子を引き寄せて座りながら静かに「昨夜のことや」と答えた。
「謝ろうかと思うて」
「……それは、僕のほうだよ」
ジャンゴは唇をかみ締めた。新月の夜、自分の力を制御できずにザジを襲ってしまったのだ。彼女が近づく感覚に反応して、抑え続けていた狂気が解き放たれてしまった。
肉を食い荒らし血を啜ろうとした瞬間に、とうとうジャンゴの理性は消え、都合が良いことに記憶もそこで途切れている。
だからその後の事をジャンゴは何も知らない。だが、容易に想像はできてしまうのだ。
外見上からはザジの異変はよく分からない。しかしその心のうちに、どの位の傷を負ったのかジャンゴには想像がつかない。かみ締めた唇から、血が流れ始める。
ザジはハンカチを出してジャンゴの口の周りを拭いた。うつむいていたから気づかなかったが、彼女の目にも涙が溜まっていた。
「違うんや。ジャンゴは何もしてへん。ウチ襲う瞬間にばったり倒れた。ジャンゴは悪うない。せやけど、ウチはあんなに苦しんでる姿見てられへんから……」
その先は聞きたくなかった。ザジのほうもそこの辺りは言いたくないらしく、苦しい顔で苦い夜を打ち消すように何回も首を横にふってから先を続ける。
「でもな。やっぱり駄目やった。途中でジャンゴが泣いてるように思えて、急いでリタ呼んで……」
宿屋から、果物屋に移した。サバタを呼んで薬を飲ませると、ジャンゴは憑き物が落ちたように落ち着いた顔で眠ったらしい。
こみ上げる辛さと切なさに耐え切れず、とうとうザジはジャンゴの胸の中に飛び込んでいた。
「ジャンゴのこと好きやねん。友達としてやない、純粋に女としてあんたの事が好き。
でも、ウチじゃあんたをそんな顔にしかさせられへん。笑ってほしい思ても、無理なんや。ジャンゴにはたった一人の子しか当てはめられへんやから」
たった一人の子。
その言葉に、ジャンゴはあの大地の巫女を思い出した。しばらく前まで、誰よりも側にいてほしいと願った娘。……だが今は、誰よりも側にいることを許されないと思っている娘。
「ジャンゴ、幸せになってよぉ…」
自分の胸の中で、少女は泣く。
「ウチら、ジャンゴのこと人間やと思うてる。それはな、ジャンゴが普通の人間と同じように、幸せになってほしい思ってるねん。
好きな子と出会って、両思いになって、結婚して、家庭作って、皆に好かれるじいちゃんばあちゃんになって。そのくらいの幸せ掴んだって、誰も文句言わないで」
「でも」
「でももストライキもあらへん! ジャンゴもリタも自分のこと悲観しすぎや! 相手を思いやるってのはそういうのとちゃう! 今まで得たもん捨ててまで得たものはあるんか!?」
涙まみれの顔で迫られて、ジャンゴは言葉を失った。
リタとケンカしていたあの時、自分は我慢の果てに何に気づかされた? リタが出生の秘密を聞いて絶望した時、自分は己の感情をぶちまけて何を知った?
自分の身勝手と卑小さ。……そして、狂おしいまでの想い。
それでも、自分たちは何かを間違えていた。そして、何処かが狂っていた。
もう修正は効かない。このまま狂い続けるか、それとも無駄な足掻きをしてますます壊れるだけか。今のジャンゴとリタにはその二択しかなかった。
「ザジ、ありがとう」
その気持ちを表に出すことなく、ジャンゴはザジを優しく抱きしめた。彼女が苦しむだけだと分かっていながら、ジャンゴはこうしてあげるしか方法を知らなかった。
今のザジに必要なのは何なのか。ジャンゴには分からなかった。
(最低だ……僕は)
涙は、出なかった。
今は誰もいない一軒の家。
そこで惨劇が起きたのを知っているのは、今このサン・ミゲルにいる人物では二人しかいない。そのうちの一人であるリタは、両親の実家であるこの家にもう一度来ていた。
血の匂いがかすかに残る家の中を、リタはまっすぐにある部屋目指して歩く。目的の部屋にたどり着くと、ブックカバーが並ぶ本棚の本の中から、一冊の本を取り出す。
『ルナ・サークル』――月光仔の一族が書き記した、月の力を持つ魔方陣の本。
ぱらぱらと流し読みしていたリタは、あるページで指と視線を止める。
そのページに書かれてあった魔方陣は、吸血変異を上手く制御するためのものだった。