新月に接吻を、満月に抱擁を・2

 暑く張った雲が、時間と共に少しずつ雨を降らせる。ここしばらくは晴れ続きだったので、恵みの雨ともいえるだろう。
 そんな中、ザジは傘を差してふらふらと歩いていた。調べ物はもう終わった。後は実行に移すだけなのだが、その実行への一歩が踏めない。踏むことが出来ない。

 最近脳裏に、ジャンゴのあの顔がこびりついて離れない。

 笑顔で隠してはいるものの、その瞳は切に語っていた。ジャンゴの心の中の深い絶望と、諦めが。
 リタとケンカした後は、少しずつだが彼の顔に本当の明るさが宿り始めていた。作り物めいた笑顔に、生の感触が戻ってきていた。なのに、今はその笑顔が辛い。
 作り物めいた笑顔ではなく、心の内を隠した笑顔。今のジャンゴに張り付いた笑顔はまさにそれだった。
 リタにそれとなく聞いてみたら、彼女はそれに気づかないふりをしていた。いまだ互いの気持ちを伝えてはいなくても、その関係が一線を越えたものになっているのはザジも気づいている。
 気づいてるなら、何とかしてほしい。それなのに、どうして何もしないのか。
 エターナル事件でサバタに叱咤されてから、ザジは何も出来ないと思う事が罪悪だと考えていた。出来ないことなんてない、ただ気づいていないだけなのだ。
(ウチは、もう一度ジャンゴの本当の笑顔を見たいだけなのに)
 そんな簡単なことなのに。どうして誰も何もしない。どうして何も気づかない。
 イライラし始めた心が足に現れ、新しく出来上がった水溜りを激しく踏み荒らす。水滴が靴を濡らしていくが、そんなのに構っている余裕はなかった。
 適当に水溜りを見つけては踏み荒らしていると、足は自然とある場所に向かっていた。

 太陽樹。

 サン・ミゲルのシンボルの一つであり、あの太陽少年と大地の巫女を繋ぐ唯一にして絶対のもの。
 この雨の中、満開の花も少しずつ花びらを落としている。水溜りに花びらが浮かぶその様はまるで何かを暗示しているかのように美しかった。
 足元ばかりを見ていたザジは、ふと顔を上げて絶句した。
 ジャンゴがいた。
 木にすがりつくように、ただ深くうつむいていた。――黒ジャンゴの状態で。
「ジャンゴ!」
 ザジが慌てて黒ジャンゴに傘を差す。
 ヴァンパイアである彼にとって、雨は日の光と同じくらい危険な代物だ。現に、ジャンゴの体からしゅうしゅうと湯気のようなものが立ち込め、脂汗がぽたぽたと落ちている。
 最初に黒ジャンゴになったとき、他でもないザジがジャンゴにそう教えた。賢いジャンゴがそれを忘れるとは思えないが……。
 ジャンゴはトランスで赤ジャンゴに戻ることなく、黒ジャンゴのままで深くうつむいている。と、突然弾かれたように動く。
 腰にすえていた剣をいきなり抜くと、ナイフを持つような形で握り、そのまま太陽樹めがけて

 深く突き刺した。

「!? ジャンゴ! 何するんや!」
「畜生!」
 止めるのも聞かず、ジャンゴは剣を抜いてまた深く突き刺す。太陽樹を切り倒さんとする勢いで、何度も何度も。
「やめて!」
 ザジは傘を投げ捨て、ジャンゴを後ろから強く抱きしめた。右手にあった剣は無理やり引き剥がしたので、からんと気のない音を立てて落ちる。
「畜生……! ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう!」
 涙と血がにじんだ声が、ザジの心に深く突き刺さる。知らず知らずのうちに、自分も大量の涙を流していた。
 自刃に走れず、誰も憎めず、何かのせいにもできず。ただただ己を責め苛み、誰の救いも受け取ることが出来ない小さな少年。望むのは、己の破滅か、それとも
「もう、ウチが許したるから……」
 許されることなのか。
 ジャンゴは何も打ち明けてくれない。
「はは、あははははは……、はははは……」
 ザジのほうを向かず、赤ジャンゴに戻ったジャンゴは笑う。涙を流す代わりに笑う。その乾いた笑いが、ザジの心の中に弱いながらも熱い炎を灯していた。

 気がつくと、ジャンゴは宿屋のシャワールームにいた。
 自分の記憶は、まるで紙芝居のように一シーン一シーンだけしか思い出せない。その一シーンの中にザジがいたから、おそらく彼女が自分の身を案じてここに入れてくれたのだろう。
 彼女に感謝しながら、ジャンゴはバルブを思いっきりひねって暖かいお湯を全体に浴びる。
 冷たい身体が暖まるのと同時に、焼け付くような痛みが全身を走り、ジャンゴはうずくまってしまった。
「くぅっ……!」
 原因は分かる。雨の中黒ジャンゴでいたからだ。打たれた場所は火を当てたかのように、灼熱を以てジャンゴを責める。しかし、ここで温度を下げれば身体を冷やすことになり、逆に風邪を引いてしまう。
「ジャンゴ?」
 シャワールームの外から、心配したザジの声が聞こえる。大丈夫、と返事すると外にいた彼女の気配はすぐになくなった。
 聡い彼女はこっちの事を知っている。だから、彼女の思いやりがきつく胸を締め付けた。
「…畜生……」
 何度も頭の中を占めていた言葉が、また口からこぼれる。バルブを閉めてシャワーを止めても、流れるしずくがジャンゴの身体を焼いた。
 壁を強く叩く。その手は人間の肌の色そのままだ。だが、
「こんな身体のどこが人間だよ……っ!」
 日の光を浴びれば肌が焼かれ、雨に打たれれば肌が溶け落ちる。血を見れば興奮し、夜になれば感覚が冴え渡る。何よりも抜けるように青白い肌と、血を垂らしたかのような赤い瞳。
 怪しげな儀式も悪魔との契約も必要ない。今のジャンゴなら、トランスの魔法一つでそれになれるのだ。人間から、イモータルと同一の存在へ。

 ――あいつ、ヴァンパイアだよ! 人間のふりしたヴァンパイアだよ!

 ジャンゴの脳裏に、あの村人の子供の声がリフレインする。
「……違う……」
 ぼそりとつぶやく。もう自分は人間じゃない。かと言って絵に描いたようなヴァンパイアではない。 人間にも戻れず、ヴァンパイアとして生きることも出来ない。この世界で一番中途半端な存在。
 世界から外れた哀れな存在。
 この街の人々は自分を人間として受け容れてくれる。それが逆にジャンゴを生ぬるい世界に閉じ込めていることに、誰一人として気づいていない。気がついたのは皮肉にも、守られているジャンゴだった。
 しかし、ジャンゴにとってその世界を否定する事は、せっかく開いた心を否定することに等しい。
 生ぬるいだけの世界に閉じ込める住人達であっても、ジャンゴにとっては掛け替えのない大切なものであり、自分であるために必要な存在なのだ。
「ジャンゴ、まだか?」
 さすがに気になってきたのか、ザジがまたシャワールームの外まで来ていた。ジャンゴは冷え切りそうな身体を暖めるためにもう一度バルブをひねった。

 服は乾いていないらしく、着た事のない部屋着が丁寧にたたんで置いてあった。ジャンゴは大きくも小さくもないので、サイズはぴったりだ。いつも着けている物がないだけで、大分新鮮に感じられる。
「お待たせ。ザジは入らないの?」
「ウチはそんな濡れてへんし」
 ザジもいつもの服からシンプルな部屋着に着替えていた。薄着なのかそれとも寒がりなのか、暖房の近くから一歩も離れない。ジャンゴはそんな彼女の隣に座る。
 ホカホカした熱気は、身体を傷つけることなく暖める。柔らかな空気のおかげで、ジャンゴはついうとうとし始めていた。
(あ、まずい)
 次に目が覚めた時はベッドの上にいた。ジャンゴにとっては一瞬だったが、どうやらかなりの時間が流れていたらしい。ふと隣を見ると、見慣れた服が丁寧にたたんで置いてある。どうやら乾いたようだ。
 何となくだるい体を押して、ベッドから出る。服を着てバンダナを頭に巻くと、ソル・デ・バイスとマフラーが目に入った。いつもの習慣でつけようとするが、その手がふと止まる。
 しばらく考えて、マフラーをソル・デ・バイスに巻きつけた。深い意味はない。ただ、こうしておいたほうがいいのではないかと思っただけだ。
 閉められてあるカーテンを少しだけ開けると、外はもう日が落ちていた。正直、今日は時間の流れが全く分からなくなっていた。記憶が切り取られた状態の今、いつ家から外に出たのかすら覚えていない。
(今夜は……)
 暗くなった空を見上げて、ぞくっとした寒気が襲った。

 ……新月…………!

 ――新月には気をつけろ。
 兄の注意が頭の中で蘇る。
 満月の日は月光仔の力が強まるが、新月の日は月光仔の力が弱くなる。そして、暗黒の力が一番強くなる日が新月の日だった。
 吸血変異を受けて暗黒の力を得てしまったジャンゴにとって、新月の日ほど危険な日はなかった。
 太陽仔としての力を飲み込まんばかりの暗黒の力が荒れ狂い、ジャンゴはベッドに寝転がる。
「はぁーっ、はぁーっ……」
 すでに呼吸は荒く、自制と狂気と一対一の対決となっている。なかったはずの八重歯が鋭い牙へと変わり、オニキスブラックの目がブラッドレッドへと変化するのも、時間の問題だった。
「く、すり……くすりはどこ……?」
 新月の日には必ず飲め、と兄に言われて渡された闇を抑える薬。それさえ飲めば楽になるはず。
 ここが宿屋だという事を忘れ、ジャンゴは虚ろな目であるわけない物を探し始める。
 狂気に震える手が、乱暴にテーブルの上をさらい、置きっぱなしだったソル・デ・バイスとマフラーを弾く。最早冷静さも何もなく枕も投げ飛ばし、ない物を探す。
 ソル・デ・バイスが転がった音は下まで響いたらしく、ジャンゴの耳にかすかに階段を駆け上る音が聞こえた。
(来ないで!)
 叫びたかった。上ってくる相手が例え兄でも、こんな醜態を見せられるわけがなかった。
 正気と狂気の境をさまよっている今、誰が相手でもその境界線はあっさりと越えてしまいそうだった。
 一階にいる誰かが階段を上りきった。
(駄目……)
 ドアノブに手をかける。
(来ないで……)
 入ってくる。
 ジャンゴは顔を見ることすら出来ずに、視線をそらし、硬く目を閉じた。
(僕を見ないで……)
 頬に手がかかる。

                              ずぐん

 ジャンゴの意識は、そこで途切れた。