続・執事の独白

 からん、と水の中の氷が少し動く。
 コップが汗をかいているのだが、彼――魅上才悟は気づくことなくぼんやりとしている。
「……ふぅ」
 珍しいため息。何も知らない女子たちがこっそりきゃあきゃあと騒いでいるのだが、彼はそれらに気を遣う余裕はない。だがそれ以外の人間……レオンはそれに感づいた。
「魅上さま」
 レオンが声をかけると、才悟がこっちの方を向く。
「執事」
「いかがされましたか?」
「……どういう意味だ?」
 どうやら自分の様子がおかしい事には気づいていないようだ。不思議そうな顔でこっちを見てくる。
 ただ悩み事自体はあるようで、少し考えてから話がある、と告げた。
「ではVIPルームでお聞きしましょう」

 

 幸運にもVIPルームは空いていた。
 才悟に水を出し、後は自由にさせる。こういう時は無理に話を聞き出さず、相手が話し出すまで黙っている方がいいのだ。
 その才悟はぼんやりとしたまま水を一杯飲む。これは長期戦かと思っていたら、才悟が口を開いた。
「執事」
 呼ばれたので顔を向けるレオン。

「オレは、赤ちゃんなのか?」

「……は?」
 手に持ってるグラスを落とさなかっただけ及第点だと思う。それだけ才悟の問いはあまりにも唐突で、あまりにも滑稽だった。
 もちろん、才悟本人は真剣な悩みなのだろう。しかし、赤ちゃんとは。
 返事に悩んでいるレオンを見てか、才悟がぽつりぽつりと語り出した。

 曰く。
 自分が成人漫画を読もうとするとすぐに取り上げられる。
 曰く。
 アカデミーでまともに性教育されていなかったから、今からちゃんと性教育をすべきだと言われる。
 曰く。
 自分はまだ何も知らないから、これからもっと勉強すべきだと言われる。
 曰く……。

「オレは赤ちゃんのようなものだから、好きも嫌いもまだ幼いって言われる。だからそう言うことは気楽に言っちゃいけない、と」
「ふむ」
 説明を聞いて、ようやくレオンは状況をある程度察する。要は、才悟は自分の扱いに不満を抱いているのだ。
 才悟は実年齢(?)とその精神のアンバランスさが故に、どうしても扱いに慎重にならざるを得ない。特に異性関係に関しては。
 しかし、当人がその扱いに満足しているかどうかとなると話は別だ。むしろ、満足していない可能性を考慮してしかるべきだったのだ。
「魅上さまはどうなされたいのですか?」
 まずは基本から。才悟の意思を知ろうと問いかけてみたところ、「よく解らない」と珍しく迷っているような返事が来た。
「オレはまず、何故赤ちゃんのように扱われてるのかが知りたい」
 なるほど。まずは自身がどう思われているかどうかのようだ。それの返答次第で、今後の事を考えるつもりだろうか。
 さてどうするか。ここで推論を語るのはいいが、推論はあくまで推論。当人の意見ではない。しかし今からジャスティスライド三人+αを呼び出すのは手間がかかる。
 少し悩んでから、まず「これはあくまで私の考えですが」と断りを入れてから話し始めた。
「確かに魅上さまは赤子か、それに近い扱いをされているのは事実です」
「……」
 才悟の顔が解り易いくらいに暗くなる。さすがに他人に疑惑を肯定されるのはきついのだろう。それはレオンもよく解るので、「ですが」と付け加えた。
「それは魅上さまが妥協や忖度をなさらない性格を熟知してるが故です。理解できないことは徹底的に追求し、調べ上げる。だからこそ、彼らも適当な答えを出さず、慎重になられておられるのです」
「だから、赤ちゃんみたいな扱いになっているのか?」
「おそらく」
「……」
 才悟の顔はまだ浮かない。しかしこれは受け入れてほしい事でもあるので、あえてフォローはしない。赤子扱いされるだけの性格なのは、理解してほしいからだ。
 そう思っていたら、じゃあ、と才悟が口を開く。

「オレが好きと言ってもまともに受けてもらえないのも、仕方ないのか?」

 ……完全に言葉に詰まった。
 赤子扱いそのものを嫌がるのと同時に、自身の思いが伝わらない事への苦悩がそこにはあった。
 どれだけ幼子が想いを伝えても、大人はそれを幼いと言う理由で微笑み、無かったことにする。幼子の真摯な思いは、宙に浮いてしまう。幼子にとって、それは辛いことだ。
 今の才悟もまさにそうだった。彼は真摯に向き合った上で思いを伝え続けているのに、自分を含め誰もがそれを真面目に受け取っていないのだ。
 彼が自分の主――エージェントに対して、人一倍強く特別な思いを持っているのは、前々から知っているのに。
「すみません、魅上さま」
 まずは、彼に謝罪する。このことに関しては、明らかに自分たちが悪い。
「その件に関してはご主人様にはちゃんと言い聞かせておきます。魅上さまも一人の成年男子だと、お忘れになられてるようですので」
「……恩に着る」
 才悟が頭を下げた。頭を下げるべきなのはこちらの方なのだが。
 改めて、才悟を見る。
 ストイックにヒーローと言う概念に取り組み、決して妥協しない。その反面、純真無垢すぎて暗黙の了解や空気と言うものを理解する気がない。成熟した身体と幼いと言えるぐらいの無垢な心。
 誰かが言っていた。才悟は早朝の雪景色、手つかずのラムネ瓶のような存在だと。
 まっさらすぎて、誰もが触れるのを恐れてしまう。その手に触れるのを躊躇し、慎重に触れようとしてしまうのだ。本人が本当にそれを望んでいるのかを考えずに。
 でも、もし。
 もしためらわずに触れて、穢したらどうなるのだろうか。
 一概に悪とも言えない「何か」になった魅上才悟を頭に浮かべ、すぐにその考えを否定して打ち消す。妄想だ。馬鹿馬鹿しいぐらいに有り得ないほどの。
「それにしても、魅上さまが好きとおっしゃられる方はいったいどのような方なのか……少し気になりますねぇ」
 話を切り替えるのと同時に、わざと茶化すように言う。さすがの彼も照れるかと思いきや。

「皇凛花だが」

 ……これまたストレートな告白だった。
 そして同時に、まだ彼の情緒はまだ幼いそれだと悟る。恥じらいの感情がまだ薄い故に、好きという感情もストレートに出せるのだろう。
 安堵と不安がない交ぜになった色んな感情が、自分の中で渦巻くのをレオンは感じた。
「どうした?」
「いえ、何も」
 レオンはつい薄く笑う。
 今はまだ、見守るだけでいい。これからの事は、これから考えよう。
 才悟は何も解らず首をかしげていた。

 

「ただいま」
 レオンの主人が戻ってきた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「疲れたわ……。あ、後で保管庫行ってくるわね」
 どうやら今回の調査は収穫有りだったらしい。これには思わずにんまりしてしまう。……が、すぐに顔を引き締めた。
「ご主人様、少しお話が」

 執務室で才悟との話を簡潔にまとめて話す。特に、彼が赤子扱いに困っていたことを重点的に。
 黙って話を聞いていた彼女は、レオンのまとめを聞き終わると「……悪いことしたわね」とやや暗い顔になった。
「魅上くんはそう言うことで苦しんでほしくないから、慎重に進めた方がいいって思ってたんだけど」
「そこは要所要所ですね。本人も至らないところはあると自覚していますし」
「ええ。ジャスティスライドのみんなにも話しておくわ」
「お願いします」
 これである程度の話は済んだ。才悟の望むような流れになるかは解らないが、お互いを思いやるクラスだ。悪い方向には向かないだろう。
「それから……」
「『それから』?」
 レオンは口を止めた。ここから先――才悟が主人を好きだと言うのは黙っておこうと思った。
 もしかしたら聡い彼女は言われなくても気づくかもしれないが、こういうのは本人の口からはっきりと言った方が面白い。
 くすくすと笑うレオンに、少女は首を傾げた。