猫がいた。
その猫は一人で生きていた。
猫がいた。
その猫は一人で死んでいった。
嗚呼、私は猫になりたい。
猫ならきっと、一人で生きても大丈夫。
嗚呼、私は猫になりたい。
猫ならきっと、一人で死んでも大丈夫。
ソロが家に来てからしばらくは、何事もなく日常が過ぎていった。
いつものように詩を書いて歌を歌って、テレビに出たりなんかして。クリスマスも近いからか、やけに外でのロケが多かったりした。
スバルに上げるマフラーは順調で、今のところ8割ぐらい編み上がっていた。クリスマスにはプレゼントできるだろうなと思うと、顔がにやけてしまう。
天地さんの話は心のどこかにひっかかってはいたけど、目の前の忙しさに対応するので手一杯で、とても話を聞くとかの状態ではなかった。
でも、それでいいんだと思う。
まだ考えはつかないし、何よりミソラ自身彼をどう思っているのか解らなかった。
好きなのか、嫌いなのか。それとも、もっと他の感情があるのか。
だからミソラは、しばらく彼の事を考えないようにした。時間さえあれば何かつかめるかもしれないし、向こうから来てくれるかもしれない。
そして、その時は予想以上に早く来た。
「え? パーティーやるの?」
「そうそう。クリスマスが一番なんだけど……」
久しぶりのスバルからの電話。その電話で、スバルが伝えてきたのがパーティーだった。
本当は夏休みにやりたかったけど、色々どたばたがあったからつい先延ばしになってたらしい。今年中にはやりたい、との事。
「いいじゃない、何とか休み作って行くよ! ね?」
最後の問いかけはハープに。彼女も「いいんじゃない?」と同意してくれた。
「で、いつやるの?」
畳み掛けるように質問したが、スバルはちょっと首をかしげる。てっきりもう予定が決まってると思っていたのだが。
スバルが説明するに、日にちはまだ決まっていないとか。みんなのスケジュールに合わせて、日にちを決定すると言った。
なるほど、先に日にちを決めたら行けない人が出てくるかもしれないから、まず皆の予定を聞いてからということだろう。
「私は……まだ完璧ってわけじゃないけど、第一週の日曜日は空いてるよ」
「第一週の日曜か……。解ったよ、委員長や天地さんに言っとくね」
スバルはそう言ってにっこり笑った。最後の「委員長」にちょっと引っかかるものがあったけど、まあそれは仕方がないと思っておく。
それにしても、パーティーだなんて。心が躍る。つい鼻歌まで出てしまった。
パーティーなら、プレゼントを渡せるチャンスもたくさんある。スバルが喜ぶ顔は、意外と早く見れそうだ。
「……どうしたの?」
どうやら、こっちが急にうきうきになったので不思議がっているらしい。テレながらも慌てて手を振るけど、ハープはけらけらと笑う。
「ミソラ、貴方からのお誘いだから嬉しいのよ」
「え?」
「はぁ?」
ハープの余計な一言に、スバルだけでなくウォーロックまで反応した。全く、余計な事を言うんだから困る。
ミソラは膨れ面になってしまったが、すぐにまだ聞いていない事を思い出した。
「と、場所はどこなの?」
問われてようやく思い出したらしく、スバルはぽんと手を叩いた。
「天地さん所だよ。アマケンは広いし、天地さんとかも呼べるしね」
「アマケン……」
その時、脳裏に浮かんだのはソロの顔だった。
(そう言えば、まだいるのかな?)
天地さんは体の検査をしたらすぐに解放すると言ってたから、もう彼はいないかもしれない。元々、束縛されるのを嫌ってたし。
と、そこまで考えて、ミソラはある事に気がついた。
(スバル君なら、もしかして)
バミューダラビリンスの最深で、スバルとソロは戦ったらしい。ミソラはその時意識を失っていたから解らないが、スバルはソロについて何か知っているかも知れない。
「ねえ」
問いかけてみたが、次の瞬間ミソラはそれを恥じた。
聞いた所でどうなるというのだ。彼の事を知ったとしても、彼が心を開くという可能性は薄い。逆に怒り出すだろう。
「? どうしたの?」
問いかけただけのミソラを変だと思ったスバルが、こっちに問いかけてくる。その顔を見て、なぜか瞬時にミソラは聞くのはやめようと硬く思った。
「ううん、何でもないの」
笑顔でごまかすと、スバルはちょっと納得できてなさそうな顔になった。まあ無理もない。
スバルに心の中で頭を下げながら、ミソラはまたにっこりと笑った。
「本当に、何でもないから」
「そう? じゃあ、そういう事で!」
ぶつりとエア・ディスプレイが閉じられた。ミソラはスターキャリアーを待機状態にしながら、大きくため息をつく。
最初感じていたうきうき気分は、もうとっくにどこかに行ってしまった。今はただ、全速力で走らされたような疲れが体中を占めている。
「聞かなくてよかったの?」
「うん」
ハープの質問に、ミソラははっきりとうなずく。
スバルや天地さんから、ソロの過去とかを聞くのは簡単だ。だが、それで本当にいいのかと聞かれると、首を横に振らざるを得ない。
上手くは説明できないが、それをやったら反則だと思うのだ。彼にとっても、自分にとっても。
だから、聞かない。聞くとしても、別の人からではなくソロから直接聞きたい。彼の口から全てを言って欲しいのだ。
(遠い道のりだ……)
彼の性格と自分のスケジュールを考えると、かなり大変だとは思う。それでも、ミソラはそれでいいと思った。
人の心は、そんな早く変わりはしないのだから。
パーティーは12月の第1週日曜に決まった。
クリスマスや忘年会には早すぎるが、遅くなればなるほどミソラのスケジュールが詰まってしまうので、これが限界だった。
マフラーは編みあがり、しっかりラッピングもかけた。後は機会を見つけて、スバルに手渡すだけだ。出来れば二人きりの時がいいが、時間が許さなければ皆の前でもいい。
パーティー前日。プレゼントを渡すシチュエーションを考えながら準備をしていると、ふと今日買った物に目が行った。
雑貨店で見つけたそれは、まだ店の名前が入ったビニール袋の中に入っている。一応プレゼント包装はしてもらったのだが……。
「それ、どうするの?」
興味津々なハープが聞いてくるが、ミソラには答えようがない。持って行ったところで本人がいるか解らないし、受け取ってくれるかどうかも怪しいものだ。
それでも持って行かないのはダメだと思い、バッグの中にこっそり入れた。
その夜、夢で猫を見た。
「あ、かわいい」
頭をなでようと近寄るが、その猫は逃げる。
ミソラが一歩踏み出せば、猫は何歩も逃げる。猫の方が速度が速いので、必然的にミソラとの距離は離れていく。
「もう、かわいいのに」
こっちはなでようとしただけなのに、猫の方はそう思わなかったらしい。たったそれだけの事なのだが、ミソラにとっては充分イラつく事だった。
意地でも触ってやろうと猫を追いかけるが、猫はもう既に駆け出していて姿が見えなくなっていった。
「どこ?」
猫が走り去った所を重点的に探し回るが、それでも猫は見つからない。猫はすばやいからなあと思いながら、一歩踏み出した。
ぐじゅ
「!?」
湿ったような音が鳴り、一歩踏み出した足の裏が生暖かい何かを感じる。
何か、いる。
想像したくない何かが、自分の足の下にいる。
「う……」
見たくない。だが、見ないといけない。見なければ……理解できない。
生唾を一つ飲み込み、恐る恐る下を見る。
そこにいたのは、無残に踏み潰された猫。
間違いなく、自分が踏み潰した猫。
「きゃああああああああああああああっ!!」
自分の悲鳴で目が覚めた。
『ミソラ!?』
ハープも起きたらしく、心配そうな顔でこっちの顔を覗き込んでくる。
「大丈夫、大丈夫よ」
首を何度も横に振ってあの夢を追い出すが、寝汗でぐっしょりなパジャマを見て、またありありと頭に浮かんでしまった。
一体あの夢は何だったんだろう。
ただの悪夢にしてはスケールが小さい気がするし、何かの暗示なら意味が解らない。
『本当に大丈夫? 難しい顔してるわよ』
悩んでいるのが顔になって出ていたらしい。ハープに真剣に心配された。
はあ~っと大きく深呼吸して、心を落ち着かせる。夜も遅いし、今はとにかく寝よう。色んな事は朝になってから考えるべきだ。
その朝……明日には何があるかをすっかり忘れたまま、ミソラは二度目の眠りに着いた。
そして朝。
「ん~~! よく寝た」
ミソラは夢の事などすっかり忘れ、ベッドの上で大きく伸びをした。
『よく寝れたわねぇ……』
ハープが呆れたようにつぶやくが、ミソラは軽く無視する。今日はみんなとパーティーする日。楽しいイベントが待っているのだ。
パーティーは午後一時から始まる。今は午前八時だから、まだゆっくり出来る時間はあるということだ。
「まずは朝ごはんよね」
ミソラはベッドから飛び起き、洗面所へと向かう。頭はまだ半分眠っていたが、歩くうちに冴えてきた。
同時に、色々なことを思い出す。主に、昨日見たあの猫の夢。
「……はぁ」
あれは結局何だったのだろう。昨日は眠すぎて、何も考えずに寝てしまったが……。
「猫かあ……」
猫を追っていたらその猫を踏み殺していたなんて、悪趣味な冗談にもほどがある。足元注意、という暗示なのか。
(足元、ね)
つい足元を見てみるが、そこには猫らしい影はない。当たり前の事だが、ミソラは安堵の息をついた。
「とりあえず、今日は足元に注意しよう」
『へ?』
つい口に出してしまったので、ハープが変な顔になった。
間に合わない可能性も考えて、家は十二時に出た。
会場はアマケンの二階の食堂。ただミソラは行った事がないので、前もってそこまでの地図を送ってもらっている。
ミソラの住む街からバスで数駅。乗り換えはないので、乗り過ごしさえしなければ近くまでは行ける。問題はその先だ。
「アマケンは確か……」
もらった地図を上げて、現在位置と確認する。この地図だと、道なりに進んですぐと言ったところか。
『看板もあるわよ、ほら』
ハープが指差す先には、「アマケン この先○km」と書かれている看板があった。なるほど、これなら迷わずに済みそうだ。
ミソラはほっとして、周りを見回した。この辺りは家屋が並んでいるが、とても静かだ。ミソラの住む街とは違い、高いマンションとかもない。
「せっかくだから、回り道しようかな」
こんな街に来るのもあまりない機会だし、じっくり見て回るのも悪くない。幸い、時間はまだある。
何となくスキップしながら、ミソラは静かな街を歩き出した。
「どっから行こうかな~」
公園とかでもいいし、お店でもいい。このまま道を歩き続けるのもいいだろう。
そんな事を考えながら歩いていると、視界の隅で見覚えのある影が横切った。
「……?」
足を止めてそっちに視線を移すと、家と家の間の空き地に誰かがいる。もっと目を凝らすと、それは黒い服を着ていた。
「あ!」
すぐに誰なのか察したミソラは、空き地へと飛び込んだ。
最初に目に飛び込んできたのは、足元に群がる猫たちだった。
にゃーと鳴くその子達は、全員首輪をしていない。多分野良猫なのだろう。元からなのか、それとも捨てられたからかは、さすがに考えたくない。
そんな猫たちに囲まれているのは、缶詰を持ったソロだった。
「あ、あのー……」
恐る恐る声をかけると、ソロよりも先に猫が鳴きながらこっちに来た。かわいいので、つい一匹抱き上げてしまう。
「……猫、好きなのか?」
ソロの口からぼそっと出たのは、挨拶ではなく問いかけだった。
あまりにも唐突だったから、最初は何を言われているのか全然解らなかった。
「へ?」
「猫」
ようやく質問の内容が解り、ミソラは猫の背中をなでながら答える。
「あ、大好きよ。かわいいもの」
「そうか」
ソロは極めて興味がなさそうに言った。質問したのはそっちのはずだが。
ミソラに抱き上げられた猫は人懐っこい性格なのか、甘えるように顔を摺り寄せてくる。そんなしぐさが可愛くて、ミソラもつい頬ずりしてしまった。
一方ソロの方は、缶詰を開けて中の猫の餌を出す。あっという間に猫たちが餌に群がった。
「ソロ君も猫好きなの?」
猫を抱いたまま訊ねると、ソロはぼそりと「ああ」と答えた。
「動物は全部好きだ」
「熊とかライオンとかも?」
「ああ」
意外だ。何かそういうのも大嫌いに見えたから、ソロの言葉はかなり驚いた。もしかして、実は優しい性格なんだろうか。
そんな事を考えてると、ミソラの腕の中にいた猫がもぞもぞと動く。慌てて下に下ろすと、その猫も餌に飛びついた。
しばらくは二人とも猫が餌を食べる姿を見ていた。何か話した方がいいとは思うのだが、何を話せばいいのか解らない。
スバルや自分を殴った敵として認識していた頃はまだいい。でも今は、どうしても彼を悪い奴だと言い切れないのだ。
この気持ちは何だろう。
少なくとも、ただ好きとかそういう気持ちではないのは解る。スバルはただひたすら好きだが、ソロに対してはそんなものではないのだ。
「あ、あのね」
勇気を出して言葉を出したが、その先が続かない。何を話そうかと考えて目が回りそうになる前に、何とか一つだけ思いついた。
「これから、どうするつもりなの?」
結局、一番無難な話題になった。彼の場合、知らんとか言いそうだが。
予想通り、彼は「さあ」とだけ答えてきた。はぐらかしているというより、本当に解らないといった感じだ。
困った顔をすると、ソロが「だいたい」と付け加えた。
「そんな事聞いてどうする。お前には全く関係ない話だろうが」
言ってる事は正しいが、何か棘があるような言い方。本人は悪気はないんだろうけど、それでもその言い方は引っかかった。
「関係ないかもしれないけど、こんな生活してるんだったらやっぱ気になるよ」
「気にしなくてもいい」
また棘のあるような言い方。そろそろ何か言おうかと思った時、ソロがぼそりと言った。
「そもそも、俺はお前らとは最初から全てが違う。得られる者と得られない者の違いが」
「……え?」
全く予想もしていなかった言葉に、ミソラは大きく固まった。
「得られる者は最初から道がある。得られない者は道どころか、最初から全て奪われてるんだ」
「え? え?」
今までとは違う雰囲気に、ソロはこっちに向かって言ってるんじゃないと瞬時に悟った。
彼は、自分の内面に向かって何か言ってる気がした。
「動物は好きだ。でも飼われる動物は嫌いだ。食い物も存在価値も、飼い主に握られてる。飼い主に捨てられれば、そこまでだ。
でも飼われた動物はそれが解らない。解らないまま、死なないといけない」
「……」
「奪われたらどうやって生きる? 誰かがいないと生きられないなら、誰もいない奴はどうやって生きればいい?
誰からも認められない奴は死ぬべき世界なのか? 誰からも認められないなら自分が認めるしかないのに、それもだめなのか?
自分ひとりで生きることが、そんなに罪悪なのか? 一人という事は死ねと言うことか?」
もう何を言い返せば解らない。
彼の言ってる事がめちゃくちゃなのもあるが、それ以上に辛い何かを感じて心が痛むのだ。
どうしよう。どうすればいい?
どうすれば、ソロの心を引きとめておく事ができる?
どうすれば、こんな辛い状況を何とかできる?
「あ、あのさ!」
気がついたら、ミソラはソロに呼びかけていた。
唐突に呼びかけられて驚いたのか、ソロの視線がこっちを向く。いつもの突き刺すような視線で見つめられると足が震えそうになるが、怖がってるわけにはいかない。
「今日パーティーやるんだけど、よかったら一緒に行こうよ。飛び入り自由っぽいし、ソロ君も知ってる人たちだから、多分、大丈夫だよ」
「……?」
「ダメかな?」
ミソラなりに考えた答えが、これだった。
今は周りに誰もいないソロだが、スバルたちならもしかして……と思ったのだ。
いや、考えれば考えるほど、スバルたちに任せるぐらいしか思いつかない。かつて同じように一人だったスバルなら、彼の心が解るはず。
「ダメ……かな?」
もう一度聞く。
それでようやく誘われている事に気づいたのか、ソロの顔が幾分か和らいだ。……少なくとも、ミソラにはそんな風に見えた。
「お前、優しいんだな。そんな事を言われたのは初めてだ」
「だったら!」
一緒に行こう、と言おうとした口は、次の一言で見事に固まった。
「――でもお前のその優しさは、奴に影響されてるだけだからな」
完全に、思考が止まった。
ソロの顔は和らいでいるように見えて、全然そうではなかった。色んなものがぐちゃぐちゃに入り混じってるのを、ただいつもの顔で抑えているだけだった。
それに気がついた瞬間、ミソラの頭から血の気が引いた。
「奴と仲良くしろなどというふざけた願いは受け入れられん。同情で仲良しごっこなど、気持ち悪すぎるんだよ」
「ちが――」
同情とかで誘いたいわけじゃない。ソロは根本的なところで間違ってるのだが、それを指摘する言葉も、修正する言葉もなかった。
それに。
ミソラの根っこにあるもの――星河スバルの存在を見透かすようなソロの言葉に、自分の何かが揺さぶられた気がしたのだ。
「……俺も余計な事を言い過ぎたな。もういい」
言いたい事だけを言って、ソロは背中を向ける。その後姿は、全てを完全に拒絶してるようだった。
ミソラには止められない。もう止める事はできない。
やがてソロの姿が見えなくなっても、ミソラは一歩も動くことができなかった。