アイソレーション・タンク

 バレンタインの日、ソロはいつも通りミソラからチョコレートを渡された。
 最初の頃は何か裏があるのではと警戒していたが、数年続けばさすがに純粋なプレゼントだと解る。
 受け取らないという選択肢もあるが、そうすると後々厄介な騒動になるのは既に経験済み。故に、気乗りはしないがチョコレートを受け取った。

 ……否、ここ最近は少しだけ期待している自分がいた。

 相手の本命が自分ではないのは重々承知だ。そもそも、自分と彼女は一度ぶつかり合っている。
 それでも何かもらえると言うのは、ちょっとだけ心が浮足立ってしまう。我ながら単純だと頭が痛くなった。
 一か月後のお返しについてあれこれ考えるのも、少し楽しい。自分のプレゼントのセンスはズレているとは思うが、ミソラの反応は悪くないのも少し嬉しかった。
 ただ、今年は少し違う事をすることになる。1ヶ月後のお返しに向いた物が思いつかなかったのだ。

「少し遠出する」
 ミソラが目を丸くした。
 ついて来いとは言わなかったが、ミソラはすぐに「暖かい恰好がいい?」と聞いてくる。ソロの言う「遠出」はニホンを出る事も多いからだ。
 今回連れていきたい場所はニホンの外だが、ニホンよりも寒い。幸い今の彼女の恰好なら、現地でもそれほど問題はないだろう。
 ソロは一つ頷いてから、ミソラに背を向けた。

 ソロがミソラを連れて来たのは、とある国の地下洞窟の奥にある湖だった。
 地下洞窟と言ってもそれほど深くなく、手すりなどの人の手が入っている。ランプも並んでいるのだが、今は一つとしてついていない。
 さすがに足元が怖くなったか、後ろからミソラが明かりをつけた。
「スバル君なら真っ先に明かり付けるんだけどな」
「そうか」
 男と二人きりな時に、別の男の名前を上げる。他の人間ならミソラの無神経さに腹を立てるだろうが、ソロは一言で切り捨てる。
 彼女にとって星河スバルはそれだけ大事な存在だし、自分は無神経に扱ってもいいような存在でしかない。数年も付き合えば、そのような扱いにはもう慣れた。
 だから何も言わない。勝手に便利な存在だと思われてるとしても、自分には関係ないのだ。
 ソロは後ろに目もくれず、先へと進む。
「ごめん」
 その態度でようやく失言に気づいたらしいミソラが、後ろから謝ってきた。
 別に気にしてないが、返事はしない。勘違いさせたかもしれないが、罪悪感を少しでも感じたならそれでいい、とソロは内心意地悪っぽく考えてしまった。
 変わったな、と思う。
 今もキズナに対する嫌悪感は変わらないし、誰かとつるむことは嫌いだ。だが、こうしてイベントに合わせてプレゼントをもらったり渡したりするようにはなった。
 今更彼らの中に入り込めるとは思わない。彼らが幸せに笑う隣で、自分は一人で世界を彷徨う。それが自分に向いている生き方だ。
「……ねえ、ここ来たことあるの?」
 ややおどおどした声で、ミソラが訊ねる。
「?」
「だってソロ、迷わずにすいすい進むじゃん」
 なるほど。
 元々夜目は効く方だし、別に転んだところで死なない。来たことがあるかないかはさておき、こういう場所でびくびくする理由はない。
(そう言えば、モデルは傷つくのを人一倍恐れるんだったか)
 ミソラはモデルではなくシンガーソングライターだが、それでも人よりも目立つ職業だ。こういうところで余計な怪我をすることに恐れるだろう。
 やっぱり、自分と彼女は真逆だ。

 地下湖は予想以上に冷えていたが、その分余計なノイズもなく視界は冴え渡っていた。
 ソロがかざしたランタンの明かりで、周りの景色が浮かび上がる。揺らぎのない湖面、光に反応してぼんやりと光るコケ、あちこちで聞こえる雫の音。
「わぁ」
 ミソラが感嘆の声を漏らす。そんな彼女の声も、白い息となって美しい景色の一つとなる。
「アロマキャンドルとか浮かべたら、もっと凄いことになりそう」
「夏はそうしているらしい。予約制であまり知られていないがな」
「そうなんだ~」
 ソロがここを知ったのは、去年の秋。
 気まぐれに立ち寄った国で、観光客と勘違いした老人が「タイミング悪かったね」とここを教えてくれた。
 地下洞窟は基本気温が低い場所なので、夏は避暑地として解放される。湖で小型のボートやキャンドル入りの灯篭を浮かべ、美しい景色も堪能するのだ。
 ただソロは、解放されている夏よりも閉まっている時期の夜がお気に入りだった。人が来ないし、何よりこの静けさと明かりの少なさが好きだった。
「じゃあ今は閉まってるはずだよね。勝手に入り込んでいいの?」
「知らん。誰かに会ったこともない」
 リアルウェーブでボートを呼び出し、乗り込む。軽く手でこぐと、ボートは少しだけ進んで陸から離れた。
 湖自体はそれほど広くないし、底も浅いからボートから落ちても濡れるぐらいだ。水が冷たいのが問題だが。
 ごろりと横になる。横になったソロの目の前に広がるのは、暗闇とぼんやりと光るコケ。一瞬だけきらめく雫。
 そしてミソラの顔。
「連れてきてくれて、ありがとう」
 闇の中でもミソラの笑顔だけははっきりと解る。一か月早送りのホワイトデーのお返しにしてはちっぽけだと思うが、彼女には充分だったようだ。
「こんなのでも嬉しいのか」
 純粋に疑問だったので聞くと、ミソラは「ソロのチョイスって外れないからね」と笑って返してきた。
「それに、自分の好きな場所に連れてってくれるって、それだけ私の事大事に思ってくれてるって事でしょ?」
「……」
 悲しいかな、反論の余地がなかった。
 気づかないうちに、ミソラやスバルたちの事は心の中で大きな存在になっていた。自分を恐れつつも、その本質を信頼してくれる。例え相手にとって小さい存在であったとしても。
 しかしそれを素直に認めるのは癪に障る。だから、無言でそっぽを向いた。

 ……そもそも、彼女は自分がここが好きな理由を知らない。知りようがない。

 ソロは静かに目を閉じる。
 目を閉じたので、視界は全て暗闇。今はミソラも無言なので、何の音もない。強く匂うものもない。視覚、聴覚、嗅覚全てが閉ざされた。
 感じるのは、ボートから感じるささやかな水の揺らぎぐらい。
 ごろりと寝転がると、揺らぎは体全体に広がった。

 アイソレーション・タンク。

 自分と外界の感覚があやふやになり、何もかも溶けていくような感じ。
 ソロがここを気に入っている本当の理由が、これだった。

 本物のアイソレーション・タンクとは違うが、この感覚こそソロが好むものだった。
 冷ややかな空気でまだ自分と言う存在があるのを実感するが、その感覚もいつ消えるか解らない。
 自分が溶けていけば、そのまま何もなくなる。
 闇の中に、消える。

 ぐいっと、体が引き寄せられた。

「……!?」
 慌てて目を開けると、ミソラが自分に抱き着いていた。その表情は見えないが、笑っているようではなかった。
「行かないで」
「おい」
「どこにも行かないでよ」
 彼女の言葉がよく解らず、内心首をかしげる。
 ボートが少し揺れるが、ミソラは構わず自分に抱き着いてくる。やや力がこもったらしく、少しだけ苦しくなった。
「だって、今ソロいなくなりそうだったんだもん。見えなくなったまま、消えてしまいそうだったんだもん」
 まるで心の中を見透かされたような言葉に、ソロは内心びくりと震えてしまう。
 自分は消えてしまう事にそれほど恐れはないが、ミソラは自分が消える事を恐れていた。
「そんなに俺が消えると思ったのか」
 ソロが問うと、ミソラはうん、と頷いた。
「ソロってさ、自分一人で死ぬのが正しいと思ってそうでしょ? ほっといたら勝手に危ない所に行って、勝手に死んでそうだから」
 それのどこが悪い、と言いたくなったが、すんでのところでこらえた。恐らく彼女が望んでいるのは、そういう減らず口ではないはずだ。
「私は嫌だよ。次に会うのは死んだ時とか、悲しすぎる」
 ミソラの言葉が、じんわりと胸にしみてくる。ここは冷え切っているはずなのに、何故か暖かく感じた。
 このぬくもりこそ、恐らく絆であり、光なのだろうとソロは思う。

 ――だからこそ、自分は離れた方がいいと思った。

 闇の住人である自分にとって、この光は眩しすぎるし熱すぎる。
 そして何より、光がこの闇の中に迂闊に飛び込めば、光はあっという間に侵食されて飲み込まれてしまうだろう。
 今こうして自分が消えていなくなるのは嫌だと泣く少女を、闇に飲み込ませるわけには行かなかった。

 しばらくは泣かせるままにしていたが、少し落ち着いたのを見計らってソロはミソラの頭を撫でる。
「オレの死はオレ自身が決める。下らんことを考えるな」
 ソロの言葉にミソラがびくりと体を震わせた。何に対しての、どういう意味での震えかは、さすがに解らなかった。
「少なくとも、まだ死ぬ気はない」
「……うん」
 ミソラは「信じる」と付け加えて、ようやく体を少し離す。
 その目は潤んでいた。
 ソロは無言でそんな彼女の頭を、もう一回撫でる。
「そろそろ帰るぞ」
「うん」
 そうは言ったが、二人とも動かない。
 今は、このぬくもりを手放したくなかった。