ニホンの某山地。
プロの登山家でも滅多に来ないそこは、たくさんの名も知れない大樹に囲まれながら1本だけ山桜が咲く場所だ。
ミソラがそんな場所を知ったのは、本当に偶然だった。
1年前にハープ・ノートとして戦っていた時、この付近の真上に来て桜に気づいたのだ。
以来、ソロをここに連れていきたいとずっと考えていた。周りの木に流されずに自身の花を力強く咲かせるその姿が、孤高の戦士の背中と重なった。
そんな桜の木の下で、一人ミソラはソロが来るのを待っていた。
来るだろうか。いつもとは違う場所だから、『第三者』を恐れて来ないだろうか。
一応夜まで待てるぐらいの準備はしてきた。リュックにはおにぎりやサンドイッチの主食から、から揚げにシーザーサラダなどのサイドメニューも入れてきた。
その中の一つであるチョコレートを一つ口に放り込み、空を見上げる。
日はまだ高かった。
暖かな陽気が眠気を誘ったらしい。
わずかながら空気に冷たさが入り込んだ頃、ミソラは目を覚ました。
慌てて辺りを見回すと、高かった日はだいぶ山に近づいている。数時間もせずに、ここは夕闇一色になるだろう。
待ち人は、未だ来ていない。
「……はぁ」
ため息が出る。
覚悟はしていたけれど、来ないのを実感するとやはり辛くなる。
外で会うのは無謀だったのか。それとも、自分に会うこと自体がもう嫌になったのか。
せめて、自分の気持ちだけは伝えたかったのに。
(……って、それだけじゃ駄目だよね)
いつもいつも気持ちを伝えたい、解り合いたいと思ってばかりだ。押し付けがましいのでは、と改めて考えなおす。
(こんなんじゃ、ソロは来たがらないか)
相手からの干渉や束縛を、彼は徹底的に嫌う。だからほとんどの人は黙って見守るぐらいにとどめているのに。
「やっぱ馬鹿だな、私」
「今更気づいたのか」
思わず口に出た自虐に賛同する声。
聞き覚えのあるその声は、ミソラの後ろから聞こえてきた。
少しぼろぼろになったソロが、夕日に照らされて立っていた。
ソロがぼろぼろになっていたのは、つい先ほどまで戦っていたからだった。
一体誰と、とかは聞かない。それはどうでもいい事だから。
ミソラがおかかおにぎりを差し出すと、ソロは無言で受け取って一口かじった。
「美味しい? あ、喉詰まりそうになったらこれ飲んで」
さっきまで押し付けはやめようと思っていたのに、本人を目の前にするとついついあれこれ言ってしまう。我ながら反省できない女だ。
ソロの方はおにぎりを気に入ったか、一口かじった後は一気に頬張る。
水も飲まずに食べきった後、「お前が見せたかったのはこれか」とぼそりと言った。
見上げた先には、山桜が夕焼けに照らされて光り輝いている。昼でも美しかったそれは、夜になっていくにつれてさらに美しさを増しているようだ。
「……凄いね……」
余りの美しさに息を呑み込んでしまい、何とか言葉に出来たのはそれだけ。
周りの木は夜の闇に溶け込んでいっているのに、この桜は飲まれることなくその美しさを保っている。
ソロの方を見れば、彼は何も言わない。桜の白と彼の髪の色が重なって見えた気がした。
「来てくれて、ありがとう」
お礼を言うと、「別に」とそっけなく返される。いつもの事だが、今回は「そもそも」と続きがあった。
「オレが来なくても誰か呼べば問題ないだろう」
背筋に冷たいものが走った。
彼の中ではこの誘いはただの花見でしかなく、自分が来なくても問題ないと言っている。
暗に、「誰か」の代わりだと告げていた。
「誰も呼んでないし、呼ぶつもりもなかったよ」
ウーロン茶で喉を湿らせてから、はっきりと答える。
「この桜は、君にだけ見せたかったもの」
1つ1つ、自分の想いを再度確認するように。
「いつか、ソロと外で過ごしたいって思ってたしね」
今隣にいるのがスバルではなく、ソロなのが嬉しいという気持ちという気持ちだけは伝えたい。
「ダメかな?」
彼の顔に視線を移すと、その表情はいつものような仏頂面とは違った、少し苦しそうな顔だった。
二人でいる時、彼はたまにこんな顔を見せる。その顔を見るたびに、自分との壁を感じて胸が苦しくなるのだ。
届かない気持ちのやりどころと、決して埋まらぬ人一人分の間が辛い。
スバルに抱いた恋慕とはどこか違う。ただひたすら欲しい欲しいと願い、それ以外には見向きもしなかったあの頃。
幸せだったのは間違いないが、それでも常に心のどこかでは焦り続けていた。自分という存在そのものが常に揺らぎ、歪んでいた。
ソロに対してはどうだろう。
今は逆に与えたいとばかり考えている気がする。スバルとは真逆な存在故か、それとも自分が変わったからなのか。
どちらにしても、自分は幼稚だと言うのがよく解る。それでも人々は自分を優しく明るいと暖かく見守ってくれるのだ。唯一、隣に座る彼を除いて。
ソロはミソラの視線に気づいているのかいないのか、持参の飲み物を飲んでいる。
一応機嫌は悪くなさそうなのを感じて、ミソラは手に持ったままのサンドイッチをかじった。
日は完全に落ち切り、視界は夜の闇一色になる。
ミソラはハンターVGからランタンを取り出すと、ほぼ同じタイミングでソロもランタンを出していた。
「「あ」」
出したタイミングもだが、出したランタンのデザインもよく似ていた。ミソラのは桜色、ソロのは黒鉄色のランタン。
「それ、いつか買ったやつだったね」
「……そうだな」
バラエティ番組のキャンプ企画に出る時、キャンプグッズを買うために立ち寄ったホームセンターで偶然会った。
正直何買えばいいのか解らなかったので、いくつかはソロが買ってた物を参考にさせてもらったのだ。
ランタンもその1つ。リアルウェーブで作れる物だから持ち運びは楽だし、デザインも無骨過ぎず可愛いカラーリングの物もあったので選んだものだった。
「スタッフも感心してたよ。『いい物買ったんだね』って」
「ふん」
彼のチョイスが、彼自身が褒められたような気がして、ちょっと嬉しかったのを覚えている。事情を知らないとは言え、彼の事を認めてくれる人はいるのだと。
寄り添うランタン2つ分の暖かな光が、ほんの少しだけミソラに力を与えた気がする。
「私は、君の……」
自分が背負えるものは全て背負う覚悟を決めて、はっきりと告げる。
「生きる理由そのものに、なりたい」
「……!」
ソロが息を呑むのが手に取るようにわかる。
無理もない。キズナを嫌う彼にとって、誰かにこんなことを言われるのは苦痛だろう。無論、ミソラもそれは重々承知だ。
恋人や親友のような大きな存在ではなく、ただ生きる理由の1つとして。
生きてほしい。
ミソラがソロの手を触れようとした瞬間、その手を大きく振り払われた。
手を差し伸べてくる奴らは少なくなかった。
全員、最後は自分の前から去って行った。――なぜなら、自分がその場から去ったから。
欲しいと思ったものは、何も手に入らない。
過去の経験から得た、ソロの人生論の一つ。
平穏な生活も、優しい両親も、無敵の力も、何一つ得られなかった。
求めるという事は、ない物ねだりでしかない。だから、欲しいと思う前に捨ててきた。
星河スバルはそれを察したか、自分のムーへの思慕を指摘しただけで一歩離れてくれた。
だが響ミソラは違った。
最初の頃は星河スバルに入れ込んでいた彼女が、いつしか自分の方にもちょっかいをかけてきた。
助けてくれたお礼だ心配だ何だと言っていたが、結局のところ星河スバルに振り向いてほしい故の行動だと、すぐに見抜いた。
指摘すればさっさとそっちに行くだろう。そう思って、適当にあしらった。収まる所に収まれば、全て解決すると思っていた。なのに。
――君の生きる理由そのものになりたい。
この期に及んで、とんでもない事を言い出した。
大人しく星河スバルの元に行けばいいのに、彼女はここに留まり恐ろしい事を言い続ける。
駄目だ。
これ以上ここにいると、心が荒れてしまう。余計な事を考えてしまう。
彼女の口先に乗せられるな。彼女に期待するな。
響ミソラが欲しい、なんて絶対に思うな。
血を吐くような吐露が、ミソラの心に深く突き刺さる。
心の深い所にいるスバルの存在を見抜かれた事もだが、何より刺さったのは求めても手に入らないという絶望だった。
(ああ、そうか)
ミソラの中で、すとんと何かが落ちた気がした。
――君は、私と似ている。
彼の姿が、自分と重なっていた。
天涯孤独で、人より先に大人になるしかなかった。何も信じられず、自分がこの世で一番不幸だと思った。ようやく見つけたものに、ひたすら縋るしかなかった。
欲しいと願っても手に入らないという絶望が、根っこにあるから。
自分は心の中の渇望をそのまま吐き出し、彼は渇望を封印した。……いや、渇望を封印せざるを得なかった。
ムーの血脈。たったそれだけが、自分と彼を分けた。
何も手に入らないから、手元にあるモノだけは何があっても奪われまいと足掻く。心の拠り所にする。
ソロにとってそれはムーであり、自分にとってそれは……。
「……私ね」
手に触れたらまた振り払われそうなので、代わりにランタンの方に手を置いた。意識はしてなかったが、触れたのは黒鉄色のランタンだった。
「ママが死んだ時、みんなに『金ならいくらでも払うからママとパパに会わせて』ってずっと言ってたの」
スバルに会う前の話だ。
両親を亡くして絶望していた頃、スタッフだけでなく周り皆に無理を言い続けていた。
周りは「親を亡くして辛いものね」と慰めてくれたが、その優しさが逆に自分は孤独で哀れな子なのだと言われているような気がした。
誰も自分を憐れむだけで助けてくれない。自分を理解してくれない。そう思った。
何もかもが嫌になって世界に八つ当たりしようとした時、目の前に現れて救ってくれたのがスバルだった。
自分と同じだ、と諭された時、誇張でも何でもなく世界が変わった。
「助けてくれたスバル君は、私にとってヒーローだった。パパとママと同じぐらい、大事な人になったんだ」
だから自分だけのヒーローにしたかった。
スバルだけのヒロインになろうとブラザーバンドは彼以外結ばなかったし、行動や歌で好きという気持ちを伝え続けた。
「だけど、スバル君はみんなのヒーローだから、独り占めなんてできるわけなかった」
大事な人は自分だけじゃなくて、それらが傷つくのをスバルは放っておけない。スバルの心を、自分だけのものにできるわけがなかったのだ。
両親もスバルも、自分だけのものにならなかった。自分が欲しいと願ったものは、何一つ手に入らなかった。
でも自分は満たされている、と思っている。本当に欲しい物は手に入らなくても、自分の大事なものは確かに色んなもので満たされている。
「ソロはいつか言ってたよね。私が自分に構うのは、スバル君へのアプローチの一つに過ぎないって」
それは間違ってなかった、とミソラは自嘲する。
「私にとって、全てはスバル君……というか、自分とスバル君の幸せのためだった。それ以外、何もいらないって本気で思ってたの」
良く言えば一途、悪く言えば盲目だったあの頃。国民的アイドルの座も、ハープ・ノートも、スバルのためになるから全力で努力した。
ソロに近づいたのも、そういう打算がなかったと言えば嘘になる。当然、そこはソロに見抜かれていたが。
「でもさ、知らないうちに、私自身が君を知りたくなった。君に私を知って欲しくなった」
いつからか気になりだした。スバルに感じるものとは違う何かを、常に感じるようになったのだ。
でも、その「何か」が今解った気がする。
「私も、欲しい物と思ったものは手に入らなかったよ」
だから、少しは寄り添えると思うんだ。
気楽に言うな、の一言で切り捨てるのは簡単だった。疑うのはもっと簡単だった。
だが、疑いに疑いを重ねても、もう得られる物は何もない。このままずるずると同じような関係が続くだけだ。
そろそろ、少しだけ彼女を信じてもいいのではないか。
少しだけ彼女を求めても、許されるのではないか。
「ソロ?」
彼は無言だった。
溜まり込んでいる感情を整理しているのか、それとも自分の言葉から耳を塞いでいるのか。
花びらが一枚落ちきるまで、お互い無言のまま夜闇と山桜を見つめるままだ。
やがて。
自分のランタンをどかして、その分ミソラの近くに座った。
「……!」
人一人分の間が、ランタン一つ分の間になった。
ミソラの方も恐る恐る自分のランタンをどかしてその分近づいてみるが、ソロは離れることはなかった。
「……いいの?」
「今回だけだ」
勘違いするなと付け加えられたが、きっとそれはささやかな照れ隠し。
ほんの少しだけでも寄り添えたのが、とても嬉しい。
「手、繋いでもいい?」
「調子に乗るな」
きつい言い方も少しだけ柔らかく感じたのは、気のせいではないはずだ。
今は、まだこのぐらいでいいのだろう。
誰も寄せ付けなかった彼が、自分を範囲内に入れてくれたのだから。
そしていつかは、自分自身も気持ちに整理を付けて彼と向き合おう。
きっと彼もそれを望んでいるだろうから。
山桜は、そんな2人を静かに見下ろしていた。