貴女との距離

 16歳は大人だと言われているが、実際に大人で許されている行為をすぐに行ったわけではない。飲酒も、その一つだった。
 一応旅立ち前夜に母が一杯だけワインを飲ませてくれたが、その感想は「何か苦い」だった。
 飲み続ければいずれ慣れるだろうと思いつつも、飲む機会には恵まれない。シルビアが入ってからは酒が出る事が多くなったが、イレブンは一度も勧められなかった。
 飲ませてほしいと言えば、飲ませてくれたと思う。しかしイレブンは一度も飲みたいと言う事はなかった。飲みたいとも思わなかった。
 自分は多分、この旅の間は飲むことはないだろう。そう思っていた矢先の事だった。

「ごめ~ん。アタシもセザールも忙しくて、取りに行ってる暇なさそうなのよ~」
 そう言ってシルビアが差し出したメモには、とある町の酒場と酒の銘柄が書かれてあった。
「……? 取りに行ってほしいって事?」
 首をかしげながら問えば、シルビアが本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
「この銘柄ね、パパがこの時期になるといつも飲んでる一品らしいの。
 本当は一週間ぐらい前になったら手紙が来て、セザールが取りに行ってたらしいけど、ほら、こんな状況でしょ? 用意自体遅くなっちゃったみたい」
 そう言ってシルビアが視線を外に投げるので、イレブンも釣られて視線をそっちに向ける。家の中でも世直しパレード隊が奏でる明るい音楽が聞こえてくる。
 なるほど。魔王の影響で、物資の流通も少し滞っているようだ。シルビアが自分に白羽の矢を立てたのも無理はない。
 そこまで考えた時、シルビアが「あ、そうそう」と手を叩いて付け加えた。
「マルティナちゃんも一緒に行くから、二人でゆっくりしてらっしゃい。酒場のマスターには、二人に一杯ごちそうするよう手配させといたらしいから」
 ……そんなわけで。
 イレブンはマルティナと一緒に、ソルティコ近くの町の酒場までお使いに行くことになった。
 街はさほど遠くないので、二人の足の速さなら午後出発でも日が沈む頃に着けるらしい。実際、いつものペースで一時間ほど歩くとそれらしい街が見えた。
「イレブンは、お酒飲んだことある?」
 唐突にマルティナが話を振ってきた。
 別に嘘をつく理由もないので、素直に首を横に振る。マルティナは一瞬目を丸くしたが、すぐに柔和な笑みを浮かべる。
「成人の儀式の時に飲まなかったの?」
「一杯だけ飲んだよ。あんまり美味しいとは思わなかったけど……」
「最初はみんなそんな感じよ。私も16歳の時に初めて飲んだけど、美味しいとは思わなかったもの」
 今は晩酌に付き合えるほど飲めるようになったけどね、と笑うマルティナ。最初は飲めなくても、日を重ねるにつれ味を理解できるようになったようだ。
「じゃあ酒場で飲むのも初めてかしら。酒場自体は情報収集のために立ち寄ってるけど……」
「うん」
 イレブンはふと、ホムラの里の事を思い出した。
 ベロニカがセーニャの情報を集めに行った時、カミュが上手く立ち回ったおかげで何とかなった。自分だけだったら、二人そろって追い出されていただろう。
 マルティナもそうだが、カミュも自分よりはるかに大人びている。年を重ねれば、自分もそんな風に立ち回れるだろうか。
「イレブン?」
 思考が顔に出ていたらしい。マルティナの目に不安の色が少し入る。慌ててイレブンは大きく首を横に振った。
「そ、そういえば、ジエーゴさんが飲むお酒ってどういうのか知ってる?」
 無理やりではあるが、話を変えた。
 ついでに持っていたメモを押し付けるように見せると、マルティナは少し押されつつもメモを取る。しばらくメモを見て考えていたが、「知らないわ」と答えた。
「グレイグなら知ってるかも」
「グレイグが?」
「酒が趣味なのよ。『それほど意外だと言われず、子供っぽくない』からですって」
 確かに。
 英雄のイメージを損なわず、それでいて楽しめる趣味だろう。あいにく、イレブンはその趣味の楽しさが解らないのだが。
「ま、実際に見てみれば解るかも知れないわね」
 メモは懐にしまわれた。別に返してほしいわけでもないので、何も言わない。
「行きましょうか」

 街に到着したのは日もとっぷりと暮れた頃だった。シルビアの予想より少し遅くなったのは、敵の襲撃を何度か退けていたからだ。
 住民に酒場の場所を聞き、まっすぐ向かう。やや入り組んだ場所にあるそれは、イレブンの予想よりもはるかに静かだった。
 客がいないわけではない。店内のシックな雰囲気に合わせ、客も静かに酒を酌み交わしているのだ。初めて入るタイプの酒場に、イレブンは一瞬ひるむ。
 対するマルティナの方は涼し気な顔で店の中を歩く。来客に気づいた何人かが、マルティナの容姿を見てため息をつくなり口笛を吹くなりと反応していた。
 無理もない。スタイル抜群の美女がいきなり現れたのだ。男なら目を向けてしまうだろう。
 その後ろをちょこちょことついていく自分は、どういう風に映っているだろう。お付きか、年下の親類か。
「マスター、ちょっといいかしら?」
 カウンターで、一人の客に酒を出しているマスターに声をかけるマルティナ。マスターも一瞬彼女の美貌に見とれたようだが、すぐに仕事モードに戻ったようだ。
「ご注文ですか?」
「それは後で。私たち、ジエーゴさんの使いで来たの。愛飲している酒が入荷したって聞いたものだから」
「ああ……。話は聞いております」
 しばしお待ちを、と言い残して奥へと引っ込むマスター。すぐに一本のボトルを手に戻ってきた。
「こちらになります」
「ありがとう」
 薄暗い店内でも、深い色合いなのがよく解る。少しだけ、味が気になった。
 箱に詰めてもらい、割れないように丁寧に袋にしまう。これでお使いは終わった。さて帰ろうかと足を出口に向けると、マスターに呼び止められた。
「お待ちください。お二人には、一杯サービスしろと言われておりますので」
「あ、そうだったっけ……」
 すっかり忘れていた。マルティナの方も忘れていたらしく、ぽかんとした顔でお互い見合わせてしまった。
 それならとカウンターの端の席に座る。すぐにメニューが二人の間に滑り込んできたので、揃って覗き込む。……が、イレブンにはほとんどがどういうものか解らなかった。
「メニュー解る? 私が頼むけど」
 情けないが、彼女に全部任せるしかない。無言でうなずくと、マルティナは自分のとイレブンのを注文した。
 周りの視線が痛い。
「ごめん、ありがとう」
「気にしないでいいのよ。いずれは解るようになるもの」
 いずれは解る。その言葉が、今のイレブンには重く聞こえた。
 マルティナは言っていた。自分と同じ年の時に初めて飲んだが、美味しいとは思わなかったと。
 それが今は美味しそうに飲み、涼しげな顔で酒場を歩き、どういう物かも解らないメニューを瞬時に理解している。それだけの事が、イレブンにとっては遠い。
 自分が今のマルティナと同じ年になる頃、彼女はどうなっているのだろう。
(……「いずれ」じゃダメだ。遠いよ)
 姉のような女性。自分より八歳年上の女性。
 どれだけ自分が速足で近づこうとしても、先を歩いて行ってしまう。自分の手じゃ届かない距離に、貴女がいる。
 それが辛い。
「お待たせしました」
 目の前に置かれるグラス。蛍光色の液体がやけに憎々しく見えて、イレブンは一気にあおった。
 苦味よりも甘味の方が大きい。おそらく酒に不慣れな自分を思いやってのカクテルなのだろうが、それもまた憎々しい。
(貴女にとって、僕はまだまだ子供なのかよ)
 隣のマルティナはさっきもらった酒と同じような色合いのものを飲んでいる。いっそ奪って飲んでやろうかと思った時、ドアが大きな音を立てて開いた。
「いらっしゃいませ」
 店員の挨拶を無視してずかずかと入ってきたのは、気性の荒そうな男だった。店内が一瞬ざわめいたのを、イレブンは見逃さなかった。
 男はマルティナにすぐに気が付いたらしい。足早に後ろまでやってきた。当のマルティナは素知らぬ顔でグラスを傾けているが。
「おい」
 男が声をかけた。まだマルティナはのんびりと酒を飲んでいる。
「おい!」
 イラついた男がマルティナの肩を取った。マルティナの方もさすがに大きく引っ張られたので、男の方を向いた。
「何かしら?」
「『何かしら?』じゃねえよ。あんた、シングルならオレと飲まないか?」
「ごめんなさいね。これ飲んだらお暇するの。それに、シングルじゃないわよ。連れがいるし」
「ああ?」
 男がイレブンの方を向く。軽く上から下まで一瞥して、わざとらしいため息をついた。
「ただのガキだろ。こんなのとっととおうちに帰らせて、俺たちは俺たちで楽しもうぜ」
 ……かっと頭に血が上るのが解った。
 今自分が一番気にしていた事を笑われた。確かに自分は子供の延長状態なのかも知れないが、本当に子供扱いされるほど子供ではない。
 隣にいるマルティナは何一つ返さない。まさか男の言い分に納得してるわけではないだろうが、何も言わないのは逆にイレブンをイラつかせた。
 二人が無言なのを了承と取った男は、無理やりマルティナの隣に座ろうとイレブンを押しのけようとする。
 その手を、強く取った。

「……僕の連れに、何か用?」

 自分でも驚くほど、ドスの効いた声が出た。
 男をきつく睨みつけると、握った男の手がびくびくするのが解る。舐め切った相手から予想外の反撃を喰らったことで、怯えていた。
 手を放し、がたりと立ち上がる。呆然としている男に目もくれず、何一つ言わないマスターに「ごちそうさまでした」と頭を下げた。
「マルティナ、行こう」
 酒のボトルを持って、先に酒場を出た。

 酒場を出た時は、既に夜のとばりが落ちていた。一般人なら泊まる事を考える時間帯だが、イレブンにはルーラがあるので問題ない。
「待って」
 呼び止められたので振り向く。
 そこにはいつも通りのマルティナがいる。顔が赤く見えるのは、多分酒を飲んだせいだろう。
「助けられたわね。ありがとう」
「……うん」
 返す言葉が思いつかず、一つうなずいた。上手く返せない自分が情けなくて、頭と胸が痛くなる。
 気恥ずかしさも加わってうつむいていると、その手をマルティナが取った。
「!」
「やっぱり大人になってるのね。もう子供扱いはできないかな」
「え……」
 意外な言葉にあっけに取られてしまう。
 大人になってる。彼女は今、そう言ったのか? 上手く立ち回る事も、酒も飲む事もできない自分が?
 だがマルティナの方はそう思っていないらしい。ごつごつした自分の手を握りしめながら言う。
「守っていたつもりなのに、守られてばっかり。支えているつもりが、支えられてる。私の方が子供みたいね」
「そんな事は……!」
 ない、と言おうとした瞬間、手が離された。柔らかい感覚とぬくもりだけが残される。
 握られていた手を、じっと見てみる。
(少しだけ、近づけたのかな)
 大人だと認められた。ただそれだけで、近づけたような気がする。我ながら現金だとは思うが、笑いたくなるくらい嬉しくなった。
 一歩だけだが、確実な一歩。
 貴女に近づく一歩。
「帰りましょうか。ルーラ頼める?」
「うん」
 意識を集中させ、ソルティコに飛ぶ。
 もう胸の痛みはなかった。