(ああもう、本当に大丈夫なのかしら……)
新しく買った――買わされたとも言う――サコッシュのショルダーベルト部分を握って、凜花は内心ため息を付いた。
バッグだけではない。服も同じく新しく買ったツーピース。いつもの紺色とは違い、柔らかなベージュのスカートをつまめば、太ももが見えそうな気がしてならない。大丈夫だろうか。才悟は似合うと言ってくれるだろうか。何せ今日は初めてのデートなのだ。
互いの気持ちを打ち明け、恋人同士になってからもう一か月は経つ。
公認の関係になったのはいいものの、実はそれ以上の進展は全くと言っていいほどなかった。強いて言えば、才悟と一緒の調査が増えたぐらいで、それ以外は特になかった。会話の内容も、才悟が今日見たもの――主に虫の話や凜花のエージェントとしての話ぐらい。こちらも回数こそ増えたものの、恋人らしい会話は何一つなかった。
そもそも、そもそもだ。
恋人になったとしても、自分と才悟の関係にライダーとエージェントのそれがなくなったわけではない。才悟からライダーを取り上げるなんてしたくないし、自分もエージェントを止める気はさらさらない。結局、自分たちの関係に「恋人」がついただけで、ほとんど何も変わらなかったのだ。改めて、自分たちが人とは違うと言う事を思い知らされる。
そんな事を考えていると。
「凜花」
後ろから声をかけられた。呼び方こそ変わったが、声は聞き間違いようがない。魅上才悟だった。
「み……才悟くん」
二人きりの時は名前の呼び方を変える。それは数少ない二人の中で変わった事だ。才悟がせっかくだから呼び方を変えてほしい、とリクエストしてきたので、二人きりの時は「魅上くん」ではなく「才悟くん」と呼ぶことにした。才悟は呼び捨てでも構わないと言ってくれたのだが、さすがにまだそこまで言える勇気はない。
さて。
凜花の服装がいつもと違うように、才悟もまたいつもと違う格好をしていた。ジャケットとパンツという基本スタイルはそのままだが、パンツが動きやすそうなジーンズだし、ジャケットも青味がかった色だ。色が違うだけでも大きく違うのだな、と凜花は思う。
「いつもとは違う格好なんだな」
「え、ええ。才悟くんも。伊織くんが選んだの?」
「ああ。せっかくのデートなんだから、と言われた。……キミは?」
「私もレオンに言われたわ……」
どうやらお互い自分チョイスの服装ではないらしい。変な所が似ているな、と二人そろってくすりと笑ってしまった。
「そ、それじゃあ行きましょうか」
「ああ」
話の切り替えとして凜花が一歩踏み出すと、当然のごとく才悟が隣に並んだ。いつもの調査と同じと言えば同じなのだが、デートと言うだけで胸がドキドキしてしまう。
さて、歩き出したのはいいが、どこに行こうかは考えていない。お約束の映画でも見るか、マーケットアベニューでウィンドウショッピングでもするか、それとも公園でひたすらのんびりするか。なまじ調査でいろんな場所を回っているため、新鮮さがないのがつらい。
少し悩んだのち、デパートに一度寄ってみることにした。自分の記憶が正しければ、才悟は私用でデパートに行ったことはないはず。確認のために「行く?」と聞くと、才悟は行くと頷いた。
さてそのデパート、最上階では有名画家の個展が開かれていると言う話だった。入場料もいらないので行こうと思えば行ける。才悟も絵の方が気になるのか、個展の説明ボードの方に目が行っていた。
「気になるなら行ってみましょうか」
「そうだな。この虫の絵が気になる」
どうやら才悟が真剣に見ていたのは、個展の説明ボードの絵に虫が描かれていたからだったようだ。虫は人を選ぶテーマだが、才悟にとっては最高のテーマだ。
最上階までエスカレーターで行くのは時間がかかるので、エレベーターで行く。三つ並んだエレベーターの前にはたくさん人がいて、凜花と才悟はその後ろに並ぶように立つ。やがて一つが下りてきたので、エレベーター待ちの人がわらわらと乗り込んでいく。当然、凜花と才悟もその群れの中に混じって乗り込んだ。
あっという間にエレベーターが人で埋まる。自分たちは最上階まで乗って行くので、必然的に奥に追いやられていく。気が付いたら、二人は手を繋いでいた。寄り添えなくても、そばにいる。そんな事実が素直に嬉しくて、凜花は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
軽やかな音と共に最上階にたどり着くと、自然と手が離れる。流れるようにエレベーターを降りると、色んな絵が二人の目の前に広がった。
「いらっしゃいませ、ごゆっくり見て行ってください」
個展は既に何人か人がいて、じっくりと見ていて回っている。凜花も才悟を連れて個展の中に入っていった。
この個展を開いた画家は主にネットの方で有名らしく、説明を読んでいる人の何人かは「ああ、動画出てたな」とか「見た事ある」などと話している。あいにく二人はそっちの方は疎いので、一度も見たことがなかったが。
最初に二人を出迎えたのは、特殊なパステルで描いたらしいとても大きな風景画だった。水彩画や油絵とはまた違ったタッチの色が、目を引き付けさせる。才悟も息をのんでその絵を見つめていた。
「こんなに大きな風景画は初めて見た」
「凄いわよね。こんな大きな絵を描き上げるんですもの」
「神威為士はこれくらい大きな絵を描いていたが」
「あー……」
そこまで言われて、凜花はようやく才悟の感動の意味が何となく解った気がした。為士は自画像しか描かない故、才悟の中では絵=自画像と考えていた部分もあるのだろう。このような風景画は初めて見たに違いない。
最初の絵に圧倒されながらも先に進むと、色んな絵が二人の目の前に広がった。水彩画もあれば、クレヨンで描かれたものもある。同系色オンリーで描かれた絵などは、本当に似た色だけしか使ってないのかと思ったぐらいだ。
「絵と言うのは色んな物があるんだな」
甲冑の老騎士の絵を見ながら、才悟がぽつりと呟く。風景画、人物画、静物画。様々な絵が、才悟には新鮮に見えるようだ。凜花もこくりと頷いた。
「才悟くんも、いつか絵を描いてみたら?」
何となく思いついた事を口にすると、才悟は「え?」という形で固まる。自分が絵を描くことは、一度も考えたことがないのだろう。ただ思考が動き始めるにつれ、その顔が微妙なものになっていく。
「オレに、描けるだろうか」
ぽつんと呟かれた言葉に、凜花は柔らかく微笑んで「大丈夫よ」と答えた。
「才悟くんは飲み込みが早いから、すぐに絵が描けるようになると思うわ。最初は好きな物……虫のスケッチから始めるとか、ね」
「虫のスケッチか……考えたことがなかった」
植物はノートに直接貼り付けることができるが、虫に関してはそうはいかない。スケッチを覚えれば、更に虫採取の趣味が捗るのではないだろうか。才悟もそう考えたらしく、興味深そうにつぶやいた。
そしてまた二人は絵を見る流れに戻る。色々な絵を見て回っていくうちに、才悟が最初に目を付けていた虫――森の絵にたどり着いた。木漏れ日の差し込む森の中、蝶が花と花の間を飛び回っている絵だ。
「モンシロチョウだ」
水彩で描かれた蝶を指す才悟。絵の中の蝶は、今にもこっちに飛び出してきそうなリアリティと、決してこの世では見られないであろう儚さを持って飛んでいる。
「不思議だ」
才悟がまたぽつりと呟く。
「モンシロチョウに水色の部分はないはずなのに、この絵のモンシロチョウはとてもリアルに捉えているように思える。何故だ?」
難しい質問だった。
神威為士のような絵に詳しい者なら堪えられるのかも知れないが、あいにく凜花は絵はそれほど詳しくない。だから、素直に自分の感性に沿って答えることにした。
「多分、絵のイメージに合わせているんだと思うわ」
「イメージ?」
「ええ。この絵は明るく描かれているでしょう? だからモンシロチョウもそれに合わせて、柔らかく明るい色を使ってリアルさを出しているんでしょう」
「なるほど……」
改めて絵を見る才悟に釣られ、凜花も絵を見てみる。柔らかな木漏れ日が、明るさと静けさを出している。そんな気がした。
「絵とは、不思議なものだな」
その言葉には、凜花も同意見だった。
「ふう……」
ベッドに寝転がり、凜花は個展の物販ブースで買った栞を改めて見る。
あの後、物販ブースに立ち寄り、気に入った物を買って交換した。凜花は才悟にスケッチ用の鉛筆を買って贈り、才悟は凜花に個展の絵がプリントされた栞を買ってプレゼントしてくれた。その後は食事をし、適当にアベニューを見て回るだけのデートだった。
(これで、良かったのかしら)
デートの経験は少ない。だから、今回のデートが相手にとって良かったのか全然解らない。才悟は喜んでくれただろうか。それともつまらないと思っただろうか……。
そんな事を思っていたら、ライダーフォンから軽快なメロディが鳴る。着信の音だ。誰かと見てみると、そこにあったのは魅上才悟の文字。
「はい、もしもし?」
『凜花か? オレだ』
「才悟くん!」
電話の向こうから聞こえる、聞きたかったけど、ちょっぴり聞きたくなかった声。間違いなく、才悟の方から電話してきたのだ。
「一体どうしたの? 何か忘れ物?」
『いや、忘れ物はない。……いや、忘れていた事ならあった』
謎かけのような言葉だ。浄辺りなら言いそうだなと思いつつ、続きを促す。
『今日はありがとう。とても楽しかった』
「……!」
才悟の言葉にドキリとする。確かにそれは聞いてなかった言葉だ。何故なら、聞くのが怖かったから。
でも今はこうして嬉しいと言う気持ちで心がいっぱいになっている。才悟はちゃんと楽しんでくれた。うっかりしてると涙がこぼれそうなくらいに嬉しかった。
「私の方こそありがとう。とても楽しかったわ」
『そうか。それなら良かった』
「え?」
『キミが楽しんでくれたか、少し不安だったから』
「……あらまぁ」
同じことを思っていたのが解り、ついくすくすと笑ってしまう。不思議そうな才悟に、「私も同じことを思っていたのよ」と言うと、才悟から安堵のため息が聞こえてきた。
あれだけ悩んでいたのが嘘のように、心が弾む。電話一つでこんなに気分が変わるなんて思わなかった。
『明日も早いんだろう? 早く寝るといい』
「ええ、お互いにね。おやすみなさい」
『おやすみ』
ほぼ同じタイミングで電話を切る。
明日もこんな風に迎えられるといいな、と思いつつ。