ふらふら、ふらふら。
女はぼんやりと歩いていた。どこを歩いているか、どこに行こうとしているのか、それら全部が解らない。ただただ足だけが動き、彼女をどこかに導こうとしていた。
本来なら整えているはずの髪は酷くぼさぼさで、顔も化粧が取れてすっぴんの顔を晒している。傍から見れば何かあったのは一目瞭然だが、誰も彼女に声をかけない。かけようと言う気を起こさせない何かがあった。
「あれ~、君どうしたの?」
――ただ一人を除いては。
声をかけられたので顔を上げると、そこにはやや心配そうな顔の青年がいた。スカイブルーの人懐っこそうな目が印象的な、整った顔がこっちを覗き込んでいる。何故だろうか、女はこの青年をどこかで見た覚えがある気がした。
「大丈夫? お腹痛いとか?」
どうやらこっちを病人か何かと勘違いしているらしい。親切なのは解るが、今は一人にしてほしい身。「ありがとうございます、大丈夫です」と言って立ち去ろうとするが、その手を青年が掴んだ。
「な、何を」
「いや大丈夫って顔じゃないよ。何か病気なら病院行った方が良いよ? それとも彼氏に振られたとか?」
「!」
痛いところを突かれた。
女は既婚者だ。だが今、その立ち位置が崩れようとしており、そのショックで家を飛び出してこうして街を彷徨っていたのだ。
青年は女の地雷を踏んだのが解ったのか、しゅんとした顔になる。このまま放っておいてくれるかと思いきや、掴む手が両手になった。
「え、あの、ちょっと」
「だったらうち……ウィズダムにおいでよ! 彼氏に振られたんだったら、酒でも飲んで忘れちゃえ!」
「え」
ウィズダムと言えば、有名な高級ラウンジ。会員制で一見さんお断りだとか、料理も酒も最高級が揃っているとか、そこの従業員が見目麗しい男たちだとか、女も色々噂は聞いている。そう言えば見覚えがあるなと思ったのだが、彼は確かウィズダムで働いている一人だったはずだ。
青年は気楽にウィズダムに来いと言うが、見た目はこんなにぼろぼろだし、何より手持ちがない。飛び出した際に財布などの大事な私物は持ってきたが、中には1万円ぐらいしか入っていない。とてもじゃないが行けるような状態ではなかった。
「あの、私手持ちがないし、何よりこんな格好だから……」
女は手をひらひらさせて、見た目のひどさと何より金を持っていないアピールをする。しかし青年は首をかしげるだけだ。
「あれ、ウィズダムを何か勘違いしてる? うちは会員制だけどドレスコードはないし、一杯一万とかのホストクラブとかじゃないよ?」
「でも」
「大丈夫大丈夫、僕が連れてきた客って事なら宗雲も悪い顔しないし、一杯だけでもお話は付き合うからさ! いこいこ!」
掴まれたままの手を引っ張られ、女は青年と共にウィズダムへと足を運ぶ。初めて高級ラウンジ、後払いやツケは利くのだろうか。そんな事ばかりが頭を占める。
……と、そこまで考えて、女は今までの重い空気が消えていたことに気づく。
つい先ほどまで死にたいとか消えたいとか考えていたのに、今はこれから行く場所に頭を悩ませている。我ながら切り替えが早いと言うか、世知辛いと言うか。
とにかく、青年のおかげで少しだけ気が軽くなったのは事実だ。今はその事を彼に感謝しよう。
そう思った。
初めて入ったウィズダムは、外見も中身も高級ラウンジの名前に負けないくらいの立派なところだった。
何となく気後れして青年の後をちょこちょことついて来ていると、スーツの男性が近づいて来た。確か、支配人のはずだ。
「颯、遅刻だぞ。何をしていた」
「ごっめ~ん。ちょっと気になる人を見つけてさ、連れてきちゃった! 今日は僕、お客居ないからいいよね?」
「全く……」
あきれ顔の支配人に、青年――颯がちょっと申し訳なさそうに手を合わせる。紹介状は持っていないが、従業員が直接連れてきた相手な以上、追い払うわけにもいかないのだろう。
支配人はこっちを一瞥したが、何も言わない。こっちの見た目を気にしているのではなく、予約なしの飛び込みの客に頭を抱えている……そんな感じだった。
ともかく。支配人が許したことで、女は颯に誘われて席に着く。メニューをさっと見るが、やはりどれもこれもが目が飛び出るほど高い。手持ちだと、飲み物一杯とつまみぐらいが限界だろう。
颯が「リクエストある?」と聞いてきたので、軽くて安い物を注文する。待つことしばし、颯が同じドリンクを持って戻って来た。ドリンク二杯か……とぼんやりと思っていると、颯が「気にしなくていいよ」とからからと笑った。
注文したドリンクに口を付けると、甘味と一緒に暖かさが身体中に広がる。飲み慣れているはずのサワーなのに、何故だろうか。
「どう?」
颯が聞いてくるので正直に美味しいと答えようとした瞬間、涙がぽろりと零れた。
「あ、ご、ごめんなさい。すぐに止まりますか、ら」
そう言って何度も手で涙をぬぐうが、一度流れたものはそう簡単に止まらない。今までせき止めていた物が、人の暖かさでとうとう崩れてしまった。そう感じた。
「やっぱり何かあったんでしょ? 大丈夫?」
颯が心配そうな顔になる。その目から本当にこっちを心配している優しさを感じたので、女はぽつりぽつりと事情を話すことにした。
結婚してからもう3年は経つ。
夫とは恋愛結婚で、お互いを思いやったいい夫婦だと思っていた。実際夫は自分や自分の両親にも優しく、記念日にはプレゼントを欠かさない男だった。……今日までは。
いつも通り夕食の支度を済ませ、帰りを待っていると、夫は時間通りに帰宅した。ただし、その脇に若い女を連れて。
仕事の同僚かと思いきや、女はニヤニヤと嫌らしく笑いながら自分こそが本命の女だ、と誇らしげに宣言した。そして夫もそれを止めることなく、同じような笑みを浮かべながら、離婚するから出ていけと宣言してきた。
曰く、結婚してから所帯じみてきてうるさいと感じるようになった。
曰く、美しいままでいる努力を忘れ、友人に見せられないような女になった。
曰く、自分の金でごろごろしているのが気に食わなくなった……。
他にも色々言われたが、一番心に残ったのは浮気相手の「女を止めた不細工が妻なんて、あの人が世界一可哀想」という言葉だった。
確かに寄り添う女は化粧もばっちりとしていて、自分よりはるかに美しく整っている。だがそれだけで女を止めた、とまで言われるとは思っていなかった。
そもそもうるさいと言うのも、夫の不摂生になりがちな食生活を心配してのもので、意地悪したいわけではなかった。なのに、彼にはその気持ちが微塵も届いていなかったのを思い知らされてしまった。
これ見よがしにべたべたとする二人に家から出ていけと言われ、放心状態で家を出た。そのまま当てもなく彷徨っていた中で、颯に出会ったのだ。
「え、それ相手の方が駄目じゃん」
女の話を一通り聞いた颯の第一声は、それだった。
「専業主婦って一通りの家事やるだけじゃなくて、ご近所付き合いとか、家計とかも全部引き受けるんでしょ? 子供産んだら子育てもしないといけないし、滅茶苦茶忙しいとかよく聞くよ?」
女は頷く。自分はお世辞にも器用ではないので、色々家事をしてるだけでも一日過ぎるのだ。
「それに美しくないってそんなわけないじゃん。確かに今は化粧とか崩れてるかも知れないけど、見せられないとかないって」
「……そうでしょうか?」
「そうだってー。ねえ浄~、この人綺麗だよねぇ?」
颯が身体を逸らして別の男――浄と言うらしい――に聞く。問われた男は「おやおや」と不思議そうな顔でこっちを見た。
「今の愁いを帯びた顔もいいけど、俺としてはやはり笑顔が見たいね。きっと素敵だろう」
「でしょでしょ!」
口説き慣れしているような言葉だったが、今の自分には十分嬉しい言葉だった。飲んでいるドリンクと合わせて、心に染み入る感じだった。そう思っていると、男は「それに」と付け加えた。
「専業主婦だって十分立派で素晴らしいレディさ。帰る家を守り、そこに住む人を思いやる。そんな姿が魅力的に映らないわけがないだろう?」
「そうですか……」
さすがに褒め過ぎだと内心苦笑いをしてしまう。だが、言葉自体はとても嬉しく、自分の頑張りを認められたような気がした。
残っているドリンクを一気飲みする。颯がいい飲みっぷりと笑うので、自分もつられて笑った。
「ありがとうございます。おかげで、少し元気になれた気がします」
「ホント? 良かった~」
全部飲み干してから立ち上がる。会計を手に取ると、颯が「ちょっと待って」と慌てて一枚の紙を手渡した。よく見ると、装丁が綺麗な名詞だった。
「次はそれを見せれば入れるから、またいつでも来てよ?」
頑張ってね、と直に応援され、女は力強く頷いた。
それからは女の行動は早かった。
ネカフェに飛び込んで離婚調停に強い弁護士を探すと、すぐに予約。その足で実家に帰り、当面の生活と離婚調停で少し迷惑をかけると両親に頭を下げた。両親は最初夫の不倫に驚いていたものの、離婚への意志を知るや否や協力すると言った。
興信所にも依頼し、不倫の証拠を集めると弁護士に提出。そこからはとんとん拍子に話が進み、相場通りの慰謝料を貰って離婚することが出来た。
今、女は実家から出てアパートで独り暮らしをしている。かつて彼女が働いていた会社が事情を知り、それならと正職員の座を用意してくれた。
元夫と不倫相手の事は知らない。噂では思うような人生にはならずに喧嘩の毎日だとも聞くが、彼女にはもうどうでもいい話だった。
女は財布から一枚の紙を出す。あの時もらった颯の名刺だ。
『頑張ってね』
名刺を取る度に、思い出す颯の言葉。
いつでも来てと言われているが、女はあの後一度もウィズダムに行っていない。でもそろそろ行ってもいいかな、なんて思ってたりもしている。今度は彼らに楽しい話ができるように。
女は名刺を丁寧に財布に仕舞った。