この世界は、地獄だ。
それが彼女の中を占めていた。
地獄の始まりは、両親が交通事故で他界してから。
誰もが自分を引き取る、引き取らないで揉める中、一人手を上げたのが、ほぼ赤の他人と言っていいぐらいの遠縁の叔父だった。
独り身でお金もあるし、何よりそれほど遠い所に引っ越さずに済むという好条件を出され、親戚たちは誰も反対することなく私をその叔父に預けた。
少女は両親を失ったショックもあり、誰が自分を引き取るかまで考えていなかった。もっと言うなら、誰が引き取ってもどうでもいいと思うくらいには、精神が傷ついていた。もっと言うなら、施設送りでもいいと思うくらいだった。
叔父は、最初は優しかった。
暖かい食事に風呂、寝床を用意してくれたし、学校転入への手続きも一人でせっせとこなしてくれた。こうして少女は虹顔市の学校に通う事になった。その頃には、少女の心の傷も少しずつ癒えていっていた。
だが、いつからか少女の心の中でアラームが鳴り始めていた。この男に気を許すな。いつでも逃げ出せるようにしろ。なぜかその注意が、頭のどこかにこびりついていた。
最初の違和感は、具合を悪くして早退した時の事。
心配しなくていいからと連絡を入れたものの、叔父はすぐに会社を早退して家に戻って来た。もう小さな子供じゃないからと何度も言ったのだが、それでも一人は寂しいだろうの一点張りで、少女の傍を離れなかった。出されたお粥は美味しかったが、病気のせいか半分残してしまった。
市販の薬を飲んで寝ていたら、物音がして目が覚めてしまった。その時何故か、彼女はぱっちりと目を開けるのではなく、薄目で周りを見渡した。
そして見たのだ。自分を見て興奮して自慰をする叔父の姿を。
怖くなってすぐに目を閉じた。そして夢だと何度も言い聞かせた。優しい叔父が、自分に対して性欲を抱いているだなんて思いたくなかった。
しかしその日以来、違和感はどんどん膨れ上がり、ついには叔父に対する感情が氷点下レベルまで冷めていった。
よくよく観察すれば、叔父の視線は自分の顔と言うより体つきの方に目が行っていたし、風呂も絶対に自分より先に入らなかった。洗濯に関しては自分でやると決めていたが、それでも叔父は「学生は学業と青春に注力すべきだ」と最後まで反対していた。
かくして、叔父の本性を知ってしまった少女にとって、家は心安らげる場所ではなくなってしまった。
学校の友達に相談して、なるべく家にいない時間を作ろうと放課後遊びまわっていると、その事を教師に咎められた。それでも無視して遊んでいると、何と叔父に連絡をし、無理やり帰らされた。
叔父は表面上はいい顔をして敵を作らなかったため、少女は「子供を引き取った優しい男に反発する娘」という形になってしまった。それでも襲われるよりはマシだと思い、家に帰る時間をとにかく先延ばしにした。
そうしたら、何と先回りして車で迎えに来た。
「迎えに来たよ。さあ帰ろうね」
そんな貼り付けられた笑顔を見た瞬間、彼女はもう自分にできる事はないのだと悟ってしまった。
そして、ついにその時が来てしまった。
鍵をかけて寝ていると、叔父がやって来て少女を犯した。
「いい子だから言う事を聞け」
「そのためにお前を引き取ったんだから」
「逃げようなんて考えるなよ」
そう何度も言われ、叔父は泣き叫ぶ少女を力尽くで抑えると、己の性欲だけを満たした。
気持ち良さなどなかった。ただ、痛みと絶望だけが少女の中にあった。
それから叔父……男は性欲発散のためだけの少女を犯した。避妊などするわけもなく、少女の身体の外に、中に醜い欲をぶちまける。
一度逃げ出したこともある。半脱ぎ状態で家の外に飛び出して交番に駆け込んだのはいいが、外面のいい叔父の嘘をすっかり信じ込んだ警官は「おじさんに心配をかけたらダメだよ」と言われて家に戻された。当然、その日は丸一日凌辱され、絶対忠誠を誓わされた。
以降、少女は絶望の中を生きていた。
助けてくれる者はいない。どうあがいても無駄。そう骨の髄まで叩き込まれてしまった少女は、毎日が地獄でしかなかった。そんなある日。
目の前を車がいくつも通り過ぎるのを見て、「アレにはねられて死ねば、もうあの男に犯されずに済む」と思った。
そうだ。死ねばよいのだ。
そうすればあの男から逃げられる。夜、ドアが開く恐怖から逃げられる。自分は、本当の意味で自由になる……。
「危ない!!」
気が付いたら、よく解らないコンクリートが打ちっぱなしのアジトのような場所で寝かされていた。
天国にしても地獄にしてもあまりにも現実的だなと思いながら起きる。そう、自分はまだ生きていた。少女が絶望的な思いでそれに気づくと、どこからか声が飛んできた。
「あ、気が付いたか?」
そう言いながらひょっこりと顔を出してきたのは一人の男だった。灰色の髪に穏やかそうな茶色の瞳。そして大柄な体が印象的だ。「気は優しくて力持ち」を擬人化しろと言われたら、この男になるのではなかろうか。
「ダメじゃないか。いきなり飛び出したりなんかして。こっちは君を撥ねそうになってヒヤッとしたんだからな」
そう言われて顔を覗かれる。その優しそうな眼差しは少女を引き取ったころの叔父、何より父親を思い出させて、彼女の目が徐々に潤み……とうとう泣き出してしまった。
「うわっ、ど、どうしたんだ?」
さすがに泣かれるとは思っていなかったらしく、男はあわあわと慌てだす。ジャケットからハンカチを出すとそれを差し出してくるので、その優しさに甘える……を通り越して、やけっぱちになった。こうなったら、誰にでもいいからこの死にたいと思う気持ちを聞いてほしかった。
少女の話を聞いていくうちに、男の顔がだんだん険しくなる。最後の辺りになると、後ろからゆらりと何かが立ち昇った、そんな気までしてきた。
「その時の何か証拠とかあるか? 音声とか……」
男がそう聞くので、少女はこくりと頷く。実は叔父との事の最中、何かの役に立つかもと思ってベッドの下にICレコーダーを置いておいたのだ。叔父が「本人から迫って来た」と言い出した時のために用意した、唯一の証拠品だ。
それを話すと、男はさっきの怒りが嘘のようになくなり、にっこりと笑った。
「だったらいい。本当に、よく頑張ったな」
そう言って少女の頭を撫でる男。その手の大きさは、また父親を思い出させるようなそれだった。
男が「かくまってくれそうな場所があるから」と、外に連れ出してくれた。少し遠いからバイクで行こうとヘルメットを渡された時、目の前に車が止まった。
「こら、見つけたぞ。遅いから探してたんだ」
窓ガラスを開けて顔を出したのは、顔だけは優しそうな叔父。普通の人なら絆されそうなその顔だが、話を聞いている男は叔父を睨みつけた。
「あんたがこの子の叔父か? 話は全部彼女から聞いている」
「え」
「悪いが、この子を家に帰すわけにはいかないな」
男はそう言い捨てると、少女をバイクに乗せて走り出そうとする。当然だが、叔父がそれを許すはずもなく、「オイ待て! ふざけんな!」と声を荒げた。男はうざったそうに首を横に振ると、バイクで走り出した。
バイクはすいすいと車を避けて走るが、叔父の車も逃がしてなるものかと必死になってついて来る。どこに連れていかれるかは解らないが、追いつかれる可能性も出てきた。さっさと撒こう、と男が言う。
細い路地など曲がりくねった場所を走る事しばらく。バイクが止まった。そこにあるのは、解りにくいがカフェだった。確か隠れ家的コンカフェだったか。
「裏から入るといい。執事さん……店員さんには話を付けてあるから、君に悪い事はしないはずだ」
「え、でも」
「大丈夫。もう絶対にあの男の元に帰るようなことにはならないさ」
そう言って笑う男。その笑みに釣られて少女も笑うが、車の音が近づいているのが聞こえたので、慌ててカフェの裏口から中に入った。
こうして少女は無事にかくまわれた。
男の言う通り事情を聞いたらしい執事のような店員が、「お待ちしてました!」と個室の一つに入れてくれた。これでも飲んで落ち着いてください、と出されたホットミルクが美味しくて、少女はまた泣いてしまった。
そうして泣きながらホットミルクを飲んでいると、店員が「お待たせしました。もう大丈夫ですよ」と言ってきた。
それからしばらくは、かくまわれる事も兼ねてこのコンカフェ(カムフラージュと言うらしい)で働いた。最初の頃は叔父が来るのではないかと震えていたものの、その度に店員が「あのお方がきっついお灸をすえたので大丈夫です!」と笑って流してくれた。
血を吐く思いで用意した証拠品も、「お灸」の役に立ったようだ。風の噂で、叔父が未成年に性的暴行を働いたことで逮捕されたと聞いた。悪質と言う事で、執行猶予もなくそのまま刑務所行きだそうだ。
親戚たちが叔父の本性を知って謝って来たが、少女はそれを受け入れるだけで留めた。それでも引き取るまで言い出すのは少なく、少女はコンカフェで住み込みで働くことを決めた。コンカフェの方もそれを受け入れ、今はコンカフェの店員として働いている。
それにしても、と少女は思う。
あの男の人は叔父に何をしたのだろう。一度店員に話を聞いたものの、大丈夫大丈夫としか言わないので、気になってしまい勇気を振り絞って面会を希望したのだ。すると叔父は何故か面会を拒否。なぜか
「鬼が……鬼が……」
と怯えて震えていたらしい。