40代のおばちゃんエージェントと18歳の最強坊主が水泳特訓をする話

 ざばざばざば、と凄まじい音を立てて、水をかき分けて進む荒鬼狂介。
「よし、いいタイムだよ!」
 そんな彼を、プールサイドで追いかける中年女性――エージェントが声をかける。その声が聞こえたか、狂介のスピードが目に見えて早くなった。
「ラストスパート! ……ゴール!」
 ストップウォッチをかちりと止める。タイムは……残念ながら新記録とはいかなかったが、好タイムではある。
「おばちゃん、どうだ!?」
 ざばりと狂介が水面から顔を出すが、こっちが首を横に振ったことで、望みのタイムとはいかなかったことを悟ったらしい。解り易く悔しがった。
「くっそー、うまくいかねェなァ」
 本人は悔しがっているものの、安定して好タイムを出せるようになっている辺り、きちんと成長している。条件さえ合えば、まだまだタイムを縮められるはずだ。
 そんな狂介に一旦上がるよう指示すると、ぶつぶつと言いつつも上がってくれた。タオルを投げると、狂介はそれで顔や身体をぬぐう。
「こないだでコツは掴んだと思ったんだけどよ」
「んな簡単に新記録ラッシュなんて出せたら、世の水泳選手は苦労してないよ」
「そりゃそうだけどさァ」
「本格的に取り組んで1週間ぐらいで、ここまで早くなったって時点でかなりのスピードだよ」

 そう、狂介が水泳に取り組み始めたのはここ最近の話だった。

 きっかけは仕事場でオリンピックの話題を聞いたこと、らしい。その話題に釣られて見たのが、水泳の決勝戦。金メダルを取った選手の体つきを見て、筋肉の付き方が気に入ったようなのだ。
 まあ水泳は運動としても普通に良いので、狂介が水泳にハマったのなら普通に付き合うだけだ。そう言うわけで、ここ1週間は狂介の水泳に付き合っている。
「水泳はアカデミーの方でもやってたからな!」
 狂介が胸を張る。なるほど、基礎はそっちで積んでいたから飲み込みが早かったのか。
「そこでも最強だったのかい?」
 あえて聞くと、狂介は解り易くしかめ面になった。
「そっちの方はナルシスト野郎が早かったんだよ。次に魅上」
「へぇ……」
 意外な順位だ。
 才悟が早いのは予想がついたが、それよりも為士の方が早かったとは。俺は美しい理論は水の中でベストマッチしたようだ。
「だから俺様は負けてらんねェ! ぜってェあのナルシスト野郎に勝つ!!」
 ……どうやら彼がタイムに拘る理由はそれもあるようだ。
 犬猿の仲である相手にタイムで負けているとなれば、躍起になるのも解る。実際、狂介の出しているタイムは為士のそれよりかは遅い。
「そのために、まずは下地作りだね」
 燃える狂介にスポーツドリンクを渡す。プロテインじゃないのかよとかぶつぶつ言いつつも、狂介はそれを受け取って飲み干した。
「そう言えば、おばちゃんは泳げるのか?」
 話が変わった。
 別に嘘をつくこともないので、一つ頷いた。
「小さいころにスイミングスクールに通ったよ。泳げるようになっておけば、いろいろ便利だしさ」
「じゃあ泳げるのか」
「一通りはね。競争できるほどはやってない」
 付け加えた情報に、あからさまに狂介が肩を落とした。どうやら勝負しようと言うつもりだったらしい。年を考えろ、と本気で思った。

 あれから数時間タイム更新に注力したものの、更新はできなかった。2、3回は惜しいと思えるタイムが出たものの、あと一歩足りないと言う感じだ。
「うーん……」
 改めてタイムを見る。
 やはり経験不足が原因なのだろうか。しかし狂介いわく、水泳自体はアカデミーでもやっていたらしい。となると、狂介のフォームに問題があるのか。
 とりあえずもう収穫はないと判断し、狂介に上がるよう促した。
「腹減ってきたぜ……」
「だろうね」
 いつもならもう一回と言ってくる狂介だが、さすがに空腹には勝てないらしい。
 時間を見ればそろそろ午後4時。今日はこのくらいにしておいた方がいいだろう。そう告げると、狂介は水泳キャップを外した。

 仮面カフェに戻ると、レオンが客の様子を見つつバータイムの準備をしていた。
「お帰りなさいませ」
 こっちを見ると小声で挨拶してくる。それを手を上げて返し、レジに行った。こっちの予想通り、1組の客がレジに近づいて来た。どうやら親子のようだ。
「ありがとうございました」
「ごちそうさまでした」
 丁寧にあいさつを返す客。その後ろで、娘らしい少女が「ママ、早くおうちに帰ってオリンピック見ようよ!」と急かしていた。どうやら彼女も連日のオリンピックの戦いにすっかり夢中になっているようだ。
 今日の予定を見ると、今日は卓球やテニスなどがラインアップされている。狂介が興味を持つラインナップじゃないかな……と思ってると、その狂介が覗き込んで「お、面白そうだな」と反応していた。
「テニスとかも見るのかい?」
「オリンピック自体面白ェじゃねェか。どの競技も燃えるぜ」
「なーるほど」
 きっかけは仕事場の会話だったのだろうが、オリンピック自体狂介の趣味に合うようだった。最近は深夜まで起きて見てるから、音がうるさいぞと松之助に怒られたと付け加えてきた。
「今回特に気に入ったのは、水泳のイケハラ選手だな。あれだけの筋肉をつけてきたなんて、なかなかやるじゃねェか」
「ああ、あの……」
 狂介が上げたイケハラというのは、女子水泳で銀メダルを取った選手だ。若手ながらも有数の実力者で、今後の活躍も期待されている。
 しかもそれだけでなく、彼女は難病を患ったことで一度選手生命が危ぶまれた時期があった。そこから不屈の闘志で治療とリハビリを重ね、今回のメダルを勝ち取ったのだ。狂介が注目するのも解る気がする。
「じゃあ、オリンピックの後で開催されるパラリンピックも見るといいね。あれに出る選手や試合も、狂介が気に入りそうなのばかりだし」
「おっ、じゃあそのパラパラピック?とかいうやつも見てみるぜ!」
 パラリンピックだよ、と訂正する。
 狂介は良くも悪くも単純思考。参加選手についてあれやこれや言わず、試合や筋肉の方に集中することだろう。
(ほんと、その単純さが救いだよ)
 水泳をやり始めたのはライバル(本人は断固認めないだろうが)に勝ちたいから、面白そうだから、そして何より水泳選手の筋肉の付き方が良かったから。
 記録だ1位だと拘り始めればいろいろとしがらみが出てくるが、狂介は単純故にブレない。だからこそ、救いにもなり得るのだ。
「んじゃ、俺様はこの辺で戻るぜ」
 こっちの考えなど露知らず、狂介は大きく伸びをして帰っていった。

 

 そして次の休日。狂介がライダーステーションにやって来た。
「おばちゃん、今日も好タイム目指すぜ!」
「お、やる気満々だね」
「もちろんだぜ!」
 ぐっと力こぶを作って、やる気満々のアクションで返してくる狂介。そのリアクションにからからと笑うと、「まずは準備体操から!」と注意を入れた。
 そこからは前と同じように準備運動、ストレッチ、肩慣らしのクロール25mを済ませる。
「そういやよぅ、やってみてェことあるんだけど、聞いてくれねェか?」
「ん? スピードアップで何か思いついたか? 私もちょっと気になってたところがあったんだ」
 実はこっちもやらせてみたい事があったので、いい機会だから話すことに決める。
 持ってきたタブレットで動画を出して、それを見ながらあれこれと話し合う。そして……。

「よーい、どん!」
「おっしゃあああああ!!」

 元気よく狂介が泳ぎ出した。