本当に、本当にそれは偶然だった。
虹顔市の超高級ラウンジ「ウィズダム」で食事と酒を堪能をした後、サブのバッグを置き忘れていた事に気づき、慌ててウィズダムに引き返した。
失態だった。周りから完璧だと言われている自分が、こんなポカミスをやらかすなんて。仕事場だったら何を言われたか解ったもんじゃない。
ウィズダムの営業時間はもう過ぎているのだが、今は非常事態。それにまだ店員も残っているだろう。そう思って入り口のドアをそっと開けると。
「俺がサポートしたから何とかなったものの、一歩間違えればお客様に不愉快な思いをさせたんだぞ。解っているのか?」
(え?)
聞き覚えのある声が、中から聞こえてきた。この声は、確か支配人の宗雲のはず。
だが中から聞こえる内容は厳しく、普段の柔和で紳士的なそれとは大違いだ。しかも一人称すら違っている。本当に、あの宗雲なのだろうか。誰かが宗雲の真似をしているのではないか。それぐらい印象が大きく違っていた。
だが中から聞こえる「本当に宗雲は厳しいねぇ」という浄の声で、あの声が宗雲で間違いない事が解ってしまう。あまりのギャップに面食らっていると、こっちに気づいたらしく皇紀がずかずかとこっちに近づいてきた。
「!」
「何見てやがる」
皇紀が感づいた事で、他のウィズダムのスタッフも私に気づいたらしい。颯はあわあわと慌てふためき、浄は少し困った笑いを浮かべていた。
そして肝心の宗雲は。
「どうなさいました? お客様」
さっきまでの厳しい態度が嘘のように消え失せ、いつもの柔和な態度で私に接してきた。まるでさっきの態度は夢だったかのようだ。
聞き間違えだったのだろうか。いやしかし、先ほど誰かを𠮟りつける声は、間違いなく宗雲のそれだった。
こっちがおろおろしていると、皇紀がぎろりと睨んでくる。こっちはいつもと変わらない、皇紀の人を寄せ付けない態度だ。逆にそれで、今自分が何をしているのか、何をしたいのかを思い出す。
「すいません、ここにバッグを置き忘れて」
「バッグ?」
言われて反応したのは宗雲ではなく颯だった。ぱたぱたとさっきまで私が座っていた席まで走って行って、私のサブのバッグを取ってくる。
「もしかして、これ?」
「ああ、はい、それです。ありがとうございます」
「良かった~。気づかなくてごめんね」
颯がほっと安堵の息を付きつつ、私にバッグを渡す。隣の浄が「帰り道には気を付けるんだよ」と優しい言葉をかけられつつ、私はウィズダムの外に出る。
宗雲が少し顔を歪めたのを、私は見逃さなかった。
あくる日。
ウィズダムで私は宗雲を指名した。支配人であり一番人気でもある宗雲が来るとは思っていなかったが、運よく彼はすぐに私の元へとやって来た。
「……この間はとんでもないところをお見せして、申し訳ありませんでした」
彼は私を認めるや否や、真っ先にそう謝って来た。柔和な声、紳士的でスマートな態度はいつもの宗雲だ。だけど。
「あっちの方が、本当の貴方なんですか?」
私はあえて聞いた。
見てしまった以上、見なかった事にはできない。誰かに話すつもりはない代わりに、私は宗雲の知らない顔が知りたかった。
柔和で優しくてかっこよくて、紳士的な王子様のような男。その反面、失態になりそうなことにはとことん注意する厳しい男。どちらも同じ宗雲という男だ。
私の問いに対し、宗雲は一瞬目を見開くが、すぐにいつもの微笑みに戻る。
「そうですね。私はウィズダムに来る全てのお客様に、最高のおもてなしをしたい。そのためなら、店の従業員に厳しく接する事もあります」
認めた。それも、完璧な答えでだ。
嘘をつくこともなく、かといってうろたえる事もなく、ただ淡々と事実を認めつつ、それを受け入れる。あまりにも完璧な答え。完璧であれと振舞おうとして忘れ物をする自分とは大違いだ。
「……羨ましいです」
気づけば私はそのような言葉が口に出ていた。
当然だが宗雲は首をかしげている。その仕草も優雅で、隙がない。私だと確実にどこか失敗するだろう。
「私も仕事場では完璧なキャリアウーマンでいたい。だけど、振り返るとどうしても完璧には思えない。気づけばどこかでミスをしている。そんな気がするんです」
先日ここでバッグを忘れたように、完璧でいることができない。それが自分のアイデンティティのはずなのに。
「貴方は、どこまでも完璧すぎる」
優雅でスマートな憧れの王子様の顔、店のためなら従業員を叱る事もいとわない厳しい顔。そのどちらも彼は完璧で、違和感を持たせない。自分とはまるで正反対の男に、私は一種の嫉妬をしていた。
宗雲はしばし黙って聞いていたが、自身が持ってきたワインを一口飲んでからぽつりと呟いた。
「私をそう評価するのは、あなたが初めてな気がします」
私は驚いた。常に完璧であれ、と自身を律しなくても、ああも立ち振る舞えるものなのか。
「私自身、それが当たり前だからそうしています。あなたの言うような完璧でない立ち振る舞いをしろ、と言われても、多分できないでしょう。ですが」
ここで彼はまた一口ワインを飲んだ。
「私とて、完璧ではありません。いや、完璧になりたくないのかも知れません」
それが宗雲の心からの本音のように聞こえたのは、私だけだろうか。
しかしそれは、私のように完璧であれと戒めているのに疲れている、というような事ではないような気がする。むしろ、完璧であることが当然すぎて、何かを失ったのだろうか。
宗雲の表情はいつもと同じ柔和なそれだが、いつもとは違う何かを感じた。
「完璧な人間など、この世にはいません。もしあなたがそれを目指しているのであれば、一旦肩の荷を下ろすことをお勧めします」
テンプレ的なアドバイスだが、今の私にはそれをテンプレだと笑う事は出来なかった。本当にそうしたいのは貴方ではないのか。そう言うのをギリギリでこらえるので精一杯だ。
私が口ごもると、彼は話の終わりと判断したのか、「それでは、素敵な夜を」と別の席へと移動していった。
ワインを片手に挨拶して回る彼の背中を、目で追う。
挨拶する度に女たちがきゃあきゃあと騒ぎ、それに合わせて手を上げていて挨拶している。おそらくあの笑みを振りまいて、客を魅了しているのだろう。
「肩の荷を下ろす、か……」
宗雲の言葉を繰り返す。
彼は肩の荷を下ろすどころか、肩の荷を肩の荷だと認識すらしていないのだろう。それが羨ましい。そんな事を思いながら料理をつまんでいると、また宗雲が戻って来た。
「どうして?」
私が素直にそう言うと、宗雲は「まだ心が晴れていないようなので」と微笑んだ。
「あなたは私が完璧すぎると言っていた。それこそ誤解だと思っていると思うのですよ」
「……そうでしょうか?」
何を言いたいのだろうか。私は黙って話の続きを促した。
「先日、あなたはあなたが言う『あっちの方』を見ましたね。あれは本来、お客様には見せるつもりのない姿なのです。ですから、私にとってはあれは完璧ではない証拠なのですよ」
「……あ」
最初聞いた時を思い出す。あまりにもウィズダムでの宗雲とは違い過ぎて、別人かと疑ったのだ。その点だけでも、彼にとっては失態なのだろう。常に紳士的で完璧。それが客の求めている宗雲なのだから。
だが私はほんのちょっとだけ納得がいっていない。何故なら、従業員に厳しい宗雲の顔もまた私にとっては完璧で、宗雲の顔だと思ったから。それでもそれを口に出さないのは、彼なりに慰めようとしているのが解ったから。
なるほど、完璧ではない。こうして勝手にへこんでいる女を慰められないのだから。
私はくすりと笑った。
「確かに、貴方は完璧ではないですね」
「ご理解頂けたようで何よりです」
多分彼は私が何を指して「完璧ではない」と言ったのか、決して解らないだろう。おそらく一生。
でもまあ、それでいいのだ。彼は完璧でありつつ、完璧になれない。ならないまま、完璧だと思われていくのだろう。
それを知っているのは私だけでいい。
「おかげでいい夜が過ごせそうです」
私は改めて宗雲が飲んでいたワインを注文した。