moon dream,moon doom・1

 いつかは何かが変わるだなんて信じるな
 夢を見ているだけ

 

 誰かの声で目が覚めた。
「…ちっ……」
 何故か舌打ちする。低血圧から来る苛立ちか、夢を思い出せなかったことに対する苛立ちか、それとも朝が来たことに対しての苛立ちか。
 分からない。
 ただ一つだけ分かるのは、これが最近の習慣になってきていることだ。苛立ちとともに目が覚め、舌打ちが目覚ましの代わりになる。
 サバタはゆっくりと体を起こした。厚く張られたカーテン越しの日差しからするに、まだ朝が早いようだ。
 ぼんやりとした思考で今日の食事当番は自分だった事を思い出し、いまだ寝たいとブーイングしているだるい体を黙らせて、部屋の外に出る。
 ぺたん、ぺたん…と静まり返った家の廊下に、サバタの素足の足音が規則よく響く。半年前から歩き始めた廊下。半年前から住み始めた自分たちの家。
 歩きながら、ふと思い出す。一年前まではまったく別の場所で住んでいた事を。
 どこも無駄に広く、豪奢だった。歩けば歩くほど足音だけが響く廊下は、幼かったサバタにとって恐怖の対象のひとつだった。
 暗黒転移を覚えてから、サバタは廊下を出歩く事はなくなった。自分の知っている、行きたい場所を念じる。それだけでどこでも飛べるのだから。
 歩くことをやめたサバタにとって、もう無駄に広い廊下は恐怖の対象ではなかった。と言うより、その頃から恐怖することをやめた気がする。
「……っと」
 追憶に身をゆだねていたせいか、あやうく閉まっている扉に頭からぶつかる所だった。慌てて歩みを止めて動きを抑える。と、その仕草で一つ思い出した。
 ……いや、一つだけあったな。

 扉。
 何の変哲もない、部屋と部屋、部屋と廊下を繋ぐモノ。
 だが、その先にあるモノ一つで変わるモノ。

 今サバタの前にあるのは台所と廊下を繋ぐ扉だ。いたって普通の扉。
 かつてサバタの前にあったのは、自分の育て親ヘルに繋がる扉。押して開けるだけでも力が要る、大きくて豪奢な扉。
 その扉を開けて中に入るという事は、ヘルに会うということだった。愛情も持たずにただ道具として自分を育てた女の下へ。
 部屋に入るときに必要なのは唯一つ。人形として心を壊してしまうこと。何も見ず、何も聞こえない。そんな存在に成り果ててしまうこと。
 だからこそ、サバタにとって扉を開ける事は一つのトラウマだった。見えない先が、彼女の顔を思い出させてしまうのだ。
 『だった』と過去形なのは他でもない。今はそれを鼻で笑えるほどになっていただけのことだ。
 扉の先にはもう何もない。あの女は消えた。だからもう大丈夫。……例え復活したとしても、もう怖がる理由はない。
 申し訳程度についているノブを回して、サバタは台所に入る。保存している食料を適当にあさり、何品か取り出して調理し始めた。薄味好みなので、調味料は極めて少なく入れる。
 卵の殻を割って目玉焼きを作っている間に、ようやく弟が起きてきたらしい。低血圧で朝に弱い自分と違い、弟はまるでスイッチでも入ってるのではないかと思うくらい目覚めがいい。
 太陽仔の力なのか、それとも生まれつきなのかは分からない。母はずっと朝も夜も関係ない所に封印されていたから、低血圧だったのかは知らない。
「おはよう、兄さん」
「ああ」
 挨拶には適当に返しておく。こっちから挨拶したことはないので、いつもジャンゴからだ。ジャンゴもサバタの性格がある程度分かってきたので、強制はしなくなった。
 台所に顔を出して料理が出来ているのを確認すると、ジャンゴは黙って出来上がったものをテーブルに並べ始めた。出来る事は黙っていてもやれ、それは兄弟の暗黙の了解だ。
 主食もテーブルに並べると、二人は黙々と朝食を食べ始めた。ジャンゴは自分より幾分濃い目の味が好きなので、ほんの少しだけ顔をしかめたが、それ以外は何の変哲もなく食事は進む。
「兄さん、今日も家にいるの?」
 クロワッサンを手に持ったまま、ジャンゴは唐突にそう聞いた。
「…いや、今日は出かける」
 サラダにフォークを突き刺したまま、サバタはぶっきらぼうに答える。どこに?とは聞かずに、ジャンゴはうーんと唸った。
 依頼でも片付けに行くつもりだが、その間家が空っぽになるのはさすがに不安だと思っているのだろう。日を延ばせばいいのでは?と思ったが、そうするには財政問題に関して少し危うい。
 仕方がない。サバタは出発の時間を遅れさせることにした。暗黒仔である彼にとって、夜中の外出は昼の外出と同じくらい気楽なものである。
 そう告げると、弟は不安の度合いが大きい複雑な顔をした。

 ジャンゴはどこへ行くのか、何しにいくのかは聞かなかった。

 

 黄昏時にジャンゴは仕事を終えて帰ってきた。入れ替わりに、支度を整えたサバタが外に出る。
「気をつけて、兄さん」
 心配そうな表情を張り付かせたまま、ジャンゴが見送ってくれた。
 軽く手を振り、サバタはサン・ミゲルを出発した。

 珍しいことに、最初の目的地までは徒歩で行った。暗黒転移を使うまでもない距離と言うのもあったが、正直次の目的地が分からないこの旅で、暗黒転移の無駄遣いは出来ない。
 明かりは細い三日月と幾層もの星だけだが、それだけでもサバタにとっては明るい日の下で歩いているのも同じだった。危なげない足取りで一歩一歩先へと進む。

 ――途中で、よく見た幻とすれ違った――

 確認しなくても分かる。あれは小さい頃の自分とカーミラだ。
 人形であり続けようとしている自分の心を開かせようと必死のカーミラが、小さい自分のを手を引いて何処かへ連れて行こうとしている。

『どこに行くの?』
『いい所ですよ。お月様のサーカスが見えるところです』
『そんなものあるもんか』
『有るんですよ、それが。とっても心がきれいな子にしか見れない、素敵なサーカス』

 会話の内容まではっきりと覚えている。あの頃は何も見ない、何も聞こえないようにと目と耳をふさいで生きてきた。だからこそ、目で見たものや耳で聞いたものははっきりと覚えている。
「お月様のサーカス、か……」
 もう自分では見えないだろう。闇に浸され、腐食した感情を押し込められた今の自分では。

 あの時見た空を泳ぐ魚、鮮やかに光り輝く花々、きらきらとまぶしかった飾り立った動物達。
 あの時聞いた優しい歌声。笛の音、太鼓の音。明るい笑い声。

 もしあのままの自分でいたら、もう一回あのサーカスが見れただろうか。サバタはそう考えてすぐに、自分の考えの浅ましさに苦笑した。
 見れたところでどうなる。そのサーカスが今はいない少女を連れてきてくれるというのか。例え見れたところで、今の自分の目にはそれはただの皮肉にしか見えないだろう。
 と、
 幻の間に、二つの影が割り込んだ。それも、行く先が自分の歩いてる方向と同じである。
「?」
 幻をかき乱したその存在たちに、気まぐれに興味を持ったサバタは後を追った。
「こっちこっち!」
「早いよ、お姉ちゃ~ん……」
 背丈はサバタの腰ぐらいしかない、双子の少女達だ。二人とも空色の髪をおかっぱにしているが、片方はマリンブルーのリボンをしている。服も同じなので、それがないと区別はつかないだろう。
 リボンをつけた女の子が姉らしい。疲れ果ててぺたんと座り込んだ妹に手を差し伸べていた。
「もう、フゥちゃんったらすぐに疲れちゃうんだから~」
「だって、スゥお姉ちゃん早いんだもん……。フゥもう歩けないよ~…」
 呆れたように肩を怒らせる姉――妹の言葉からするに、スゥと言うらしい――に、妹――こちらはフゥと言うようだ――が泣きそうな顔になって首を横に振る。
 そんな様子が、ありもしなかった幼い頃の兄弟の姿を想像させた。

 ――まったくぅ、お前すぐに疲れすぎ!
 ――兄ちゃんの足が速いんだよ~!

 膨れ面をしている幼い自分に、弟が泣きそうな顔で抗議する。そんなありきたりな光景。泣きそうになるジャンゴの手を引いて、自分は歩き出すのだろうか。
 そんなことを思っていると、妹の方がサバタに気づいたらしい。甲高い悲鳴を上げて、姉の後ろに立つ見知らぬ男を指す。
「フゥちゃんどうしたの? ……え、あ、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 ずいぶんとテンポがずれているが、姉もサバタを見て悲鳴を上げた。すっかり泣きべそをかいている妹をかばいながら、なけなしの勇気を振り絞ってサバタを睨む。
 その仕草も、サバタには幼い自分たちの姿を想像させた。知らない人物に泣き出す弟、必死の形相でその人物を睨む自分。
 ……決してありうる事のない光景。
 妄想を振り切って、サバタはこいつらをどうするかを考えた。泣き出した子供のお守りなどする気はない。とは言え、ここで泣かせっぱなしだと後々問題になるかもしれない。
 それに、何故こんな時間に小さい彼女らがここを歩いているのだろう。このくらいの年なら大抵はベッドの中だし、親が外に絶対出させない。その親とはぐれたにしても、彼女達は明るすぎた。
 孤児だろうか。それなら彼女達がこんな夜中に出歩くのも少しは分かる。だが、明るい笑顔までは考えが追いつかない。
「…お前ら、何してるんだ?」
 ついて出たのは弁明でもなくあやす言葉でもなく名乗る言葉でもなく、質問だった。泣き喚いていた双子の少女たちは、その言葉に涙を引っ込めてきょとんとした顔でサバタを見る。
「……へ?」
 何が「へ?」だ、と怒鳴りつけたいのを抑えて、サバタはもう一度同じ質問をした。双子はようやく目の前にいる男が悪そうな人ではないのを悟ったらしく、顔を見合わせてすぐに笑った。
「サーカス見に行くの!」
「お月様のサーカスがあるって聞いたの」
 その言葉に、今度はサバタがきょとんとなる顔だった。
 今自分が思い出していたこと。純粋な子供だけにしか見れない月の隠し事。それを彼女達は見に行くと言っているのだ。
「……偶然だな……。俺も、見に行く所だったんだ……」
 言葉は、ぽつりと転がり落ちた。口からではなく、心から転げ落ちたような言葉だった。

 サバタの旅は、過去に戻る旅。
 人形として無視し続けていたパーツを探した時、月は彼に一つの判決を下す。

 判決の内容は、まだ誰も知らない。