新月に接吻を、満月に抱擁を・4

 貴方となら、堕ちるのも怖くない。
 ……いいえ、貴方と共に堕ちることが私の道。

 ザジが帰った後は、いつも以上に静まり返った居間で食事を取った。今日はジャンゴが食事当番だったのだが、様子の異常さを悟ってサバタが一人で作ったようだ。
 ……食事を取る前にその食事に向かって手を合わせるのはジャンゴの癖だったが、今日だけは兄に向かって手を合わせた。
 薄味好きな兄の手料理を、義務的に口の中に放り込んで噛んで飲み込む。味は何一つ感じられなかった。まるで、紙か何かを口の中に入れているような気がした。

 時間と言うものは無常で、誰がどう思おうと全く同じペースで流れていく。そのペースに巻き込まれ、流されるようにジャンゴは日にちを過ごし、いつしか今夜は満月というところまで来ていた。

 いつものようにアンデッドダンジョンに潜り込み、アイテムのストックが切れて果物屋に寄る。
「…あ、いらっしゃいませ!」
 どうやら客足が途切れたことで、暇つぶしに本を読んでいたらしい。扉が開いた音を聞いて、リタは慌てて本を閉じていつもの挨拶をした。本はブックカバーがかけられていて、タイトルすら分からなかった。
 切れた太陽の果実の補充をしながら、ジャンゴは未だリタの手元にある名前の知らない本に思いを馳せた。
 リタは、この本にどんな思いを託しているのだろうか。
 そして自分がこの本を読むとしたら、どんな思いを抱くのだろうか。
 もはや希望の持ち方すら忘れた自分に、この本は何を教えてくれるのだろうか。
「ジャンゴさま?」
 思考の海から引き戻したのは、リタの声だった。はっとしてカウンターを見ると、自分が頼んだ分は袋に詰めて置かれていた。受け取ろうと袋に手をかけると、その手にリタの手が添えられた。
「…何?」
「ジャンゴさま、少しお話が」
 真摯なまなざしに、ジャンゴは一瞬だけひるんでしまった。リタの方はそんなジャンゴに構わずに、入り口に「休憩中」の看板をぶら下げて、中に招いた。

 買った品物は店に残しておいた。どうしようか迷った挙句、しばらくは外に出られそうにないのでそうしておいた。
 リタ個人の家に入るのはこれで2回目だ……1回目は入れられた、と言うのが正解なのだが。
 こうして落ち着いて見ると、意外と個人の私物が少ない気がする。神殿で過ごしていたころの影響だろうか。
 視線で地べたに座るよう勧められ、ジャンゴは素直に座った。リタは自ら上げた客人にお茶を出すことなく、真っ先にさっきまで読んでいた本――『ルナ・サークル』を手渡す。
「これ、何?」
「月光仔の一族の本です。マーニ様はその身分を隠しておられたそうですから、ジャンゴさまが知らないのも無理ないと思います」
 本にしおりが挟まっているので、ジャンゴはそのしおりが挟まっているページを開いた。そのページは、吸血変異を制御する魔方陣の説明が書かれてある。
 文字を追うジャンゴの顔が、少しずつ厳しくなっていった。そのページには、彼女の真意が嫌と言うほど詰まっていたのだ。
「僕は許さないよ! リタ、自分で何しようと思ってるのか分かってる!?」
「分かってます」
「嘘だ!」
 本を乱暴に閉じてリタに返す。突きつけられるように返された本を、リタは愛おしそうになでた。
「貴方一人だけをつま弾き者にはさせません」
「僕はそんなの望んでない! これは僕一人でも多いくらいなんだ!」
「私は、望みます」
「リタ!」
 いつの間にか涙が流れているその頬を、優しく包み込まれた。その手が、彼女の覚悟と悲しい決意をジャンゴにハッキリと伝えさせる。ジャンゴは耐え切れずに深くうつむく。
「僕は嫌だ。リタも僕と同じ半ヴァンパイアになるなんて」
「ジャンゴさまはもう知ってるんでしょう? 生まれたときから私は人間でもなく、ヴァンパイアでもないんですよ」
「僕にとってリタは人間だよ。ヴァンパイアなんかじゃない」
「それを言うなら私も……いえ、皆そうです。ジャンゴさまは人間であって、ヴァンパイアじゃない」
「それでも、僕は、絶対、嫌だ」
 一言一言区切りながら、ジャンゴは強く反対する。そんな彼を、リタは強く抱きしめながら耳元でささやく。
「それとも、一生こう言い続けて欲しいですか?

 ……貴方一人だけが苦しめばいい。この人の形をしたバケモノが」

「…くっ……!」
 ジャンゴの瞳に暗い光が宿る。手が一瞬震え、そしてリタを激しく抱きしめ返す。気づいてしまった。自分が一番何を求めているのか。
 求めていたのは、彼女に断罪されること。そして彼女を道連れにすること。
 同じ人の形をしたバケモノであるリタだけが、自分を断罪する。それだけでジャンゴは暗い満足を覚え、安らぎを感じてしまうのだ。
 そして彼の懺悔を聞くことが許されるのも、同じバケモノであるリタだけ。
 救いもいたわりも許しも励ましも、ジャンゴには届かない。唯一届くのは
「懺悔なさい……。私だけが聞いてあげます…」
 断罪をちらつかせるその言葉だけ。
 決して止めることのできない恋情だけが純粋で、後は音を立てて狂い壊れていく。自分たちはどこでなにを間違えたのだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。
「畜生……」
 かろうじて出たその言葉こそ、ジャンゴの懺悔なのだとリタは悟っていた。

 ジャンゴは家に帰ってきた。
 家ではやはりサバタが本を読んでいる。しかしその視線は何処か虚ろで、内容は全然理解できていないようだった。
「兄さん」
 虚ろな視線の兄に呼びかける。兄は視線を上げない。それでもジャンゴは兄のほうを向いて言った。
「今夜、ザジと一緒にパイルドライバーの広場にいて」
「……分かった」
 どうしてとも何があったとも聞かない。ただ兄は、ジャンゴの願いを一言で受け容れた。

 影を背負って部屋に戻る弟の後姿を、サバタは静かに見つめていた。弟の頼みの意味は分かる。そして、そこにある覚悟も。
 部屋のドアを閉めたのを見てまた本に目を落とすが、サバタには全然内容が分からなくなってしまった。前から楽しみにしていた古い戦記ものなのに、全然話が読めない。
 いや、読めないのは本ではなく、弟の心の中なのだ。
 人ならざる者に堕ち、それでも希望と明日を信じているはずの弟に宿っていた暗い影。
 果てしない絶望と、永遠の後悔。そして届くことのない懺悔。どれも自分にとって感じたことのあるはずものなのに、何一つ分からない。
 どうすればいいのか分からない。あいつの気持ちに光を差し込ませる言葉が、見つからない。
(お前ら揃いも揃って純粋過ぎるんだよ……!)
「畜生……!」
 サバタの口からこぼれた言葉は、数時間前にジャンゴが漏らした言葉とまるっきり同じだった。意味も、その言葉に宿った感情も。

 満月の夜が来る。月光仔の一族が一番力を発揮できる満月の夜が。
 黒ジャンゴへとトランスしたジャンゴは、リタの家に向かった。吸血鬼っぽく窓から入ろうかな、といたずらめいた考えが一瞬頭をよぎるが、すぐに打ち消した。
 店の裏口(つまり家の玄関)からノックすると、リタがすぐにドアを開けた。来るのは当然、と言う顔だった。招かれるままに、魔方陣を設置した部屋へと向かう。
 吸血変異を制御する魔方陣は、満月の夜でないと効果を発揮しない。
 前にジャンゴがリンゴに噛み付かれて、ヴァンパイアの血に汚染された時、サバタが命がけのパイルドライバーを敢行することによって吸血変異を制御した。
 しかし今回はこの魔方陣の力を使って、リタの中で眠る闇を目覚めさせて制御する。生まれる時に父の力と魔方陣によって何とか封じ込められた闇。それを今開封しようというのだ。
 ジャンゴの場合とは違い、失敗する可能性は低い。しかし成功したとしても、どうなるかは誰も分からない。それでもリタは迷わず、ジャンゴもその方法に乗った。
 予想していたのより小さな魔方陣の上に立ち、リタを招く。彼女は誘われた手を掴み、静かに首筋を差し出した。チェンジ・ウルフを使わず、ジャンゴはその首筋に牙を立てる。
「あうっ!」
 直接的な痛みにリタはつい苦痛の声を上げるが、ジャンゴはお構いなく牙を深く刺す。牙から流れた血が、ジャンゴの舌を通って喉を潤した。
(甘い……)
 自分のものだと鉄サビめいた味しかしなかった血が、リタのものだというだけでどうしてこんなに違うのか。本能に身を任せて啜りたくなるのを抑え、ジャンゴは自分の牙を抜いた。
 刺した先から血は流れない。
 長い封印から解き放たれた闇が中で荒れ狂っているのだろう、リタはたまらずにジャンゴに抱きついた。抱きつかれた方のジャンゴは、彼女の耳元で大分前に教わったことをつぶやく。
「制御は無心から始まるんだよね。何も考えないで」
 かすかにうなずいたのを感じた。何も考えるなと言った矢先だが、ジャンゴは今のうちに言いたいと思った事を口にする。
「僕に何て言って欲しいか当ててみようか……?

 もう君は僕だけのモノ…、……一生離さないよ……」

 びくりとリタの体が大きく反応した。
「あぁっ……」
 見なくても分かる。彼女は笑ってた。壊れた感情の中で願い続けていた想い。激しく、痛いくらいに純粋なモノ。そしてそれはジャンゴも同じだった。
 父や兄もこの哀切を秘めて、己の恋人を愛したのだろうか。
 立つ力を失ったリタを、ジャンゴは静かに座らせる。外と内からの圧迫感に耐える彼女の声を、ジャンゴは何回も黙って聞いた。
 これは僕に与えられた罰。懺悔しかできない僕に与えられた、一番苦しい罰。だから失ってはいけない。
「生きてよ……」
 ジャンゴは無意識につぶやいていた。
「僕が罰を受けるために、生きてよ……」
 その言葉が聞こえたのか、リタの身体に変化が起きる。
 巫女装束が薄暗い色になり、特徴的な腰のリボンが鉤尻尾のように伸びる。スカートに深いスリットが入り、むき出しになっている肌に漆黒のタトゥーが這いずり回った。
 首の後ろから何か触手のようなものが伸びた時、リタは完全に意識を失った。ちょうど魔方陣の真ん中に寝かせてみると、息こそ荒いが暴走するような雰囲気はなかった。
 彼女は制御したのだ。生まれた時から先延ばしにしていた吸血変異を。
 バイザー(バンダナ)を外し、ジャンゴは青白くなったリタのまぶたに手を触れる。今は閉じられているが、その瞳は自分と同じく赤黒いものに変化しているだろう。
「本当に、離さないからね。だって好きだもの、君のことが」
 ジャンゴの言葉はその手を伝って、彼女の心に届いたかどうか――。

 パイルドライバーが設置されている広場。
 そこにはサバタとザジが、来るべき人を待っていた。
 二人とも事情を知り、悲しみの色が多い複雑な顔をしている。特にジャンゴに「人として幸せになって」と懇願したザジは、サバタに肩を抱かれて泣き出しそうな顔をしていた。
 やがて。
 夜目が利く二人の目に、寄り添う二つの影が見えた。人ならざるモノへと変わってしまった二つの影が。
「兄さん」
 影の一つ――黒ジャンゴが、サバタを呼ぶ。
「それが、お前達の答えか」
 サバタの問いに、もう一つの影――ジャンゴと同じ半ヴァンパイアと化したリタがうなずく。
 ザジは耐え切れずに、二人を抱きしめて涙を流した。
「何で、何で、こないな事になってもうたんや……」
 その問いに、答えられる者はいなかった。
 リタがそんな彼女の肩を抱き、優しく慰め始める。でもそれは、心からのものであっても空しい代物だった。
「明日もまた、日は昇るから。
 僕たちは、ここから逃げたりなんかしないから……」
 そのジャンゴの言葉に、サバタもとうとう泣き出してしまった。
「馬鹿野朗が……ッ!」
 ジャンゴとリタは、鏡でも置いたかのようにそっくりな笑みを浮かべた。

 世界から外され、人ならざるモノへと堕ちたジャンゴとリタの、最初で最後の誓い。

 狂いながらも純粋でい続ける彼らの道は、ただただ長く続いている……。