教育地区の一画に、そのラーメン屋はあった。
エージェント――私は執事のレオンを連れ、そのラーメン屋の暖簾をくぐる。早速店員が「何名ですか?」と声をかけてきた。
「2名!」
「空いてる席にお座りください!」
私が人数を言うと、これまた速攻で席を勧められる。なので、空いてるテーブル席に座った。
「ご主人様が私にお昼ご飯を奢ってくださるとは思いませんでした」
そう言ってそわそわと落ち着かないレオンの服は、いつもの執事服ではない。グレーのワイシャツにスラックスと、一般的な社会人のそれだ。
家を出るまで執事服で出ようとしていたのだが、行く場所はごくごく普通のラーメン屋だからと、無理やりこの服を着せた。そりゃそうだろう。普通のラーメン屋にパリッとした執事服なんて目立つったらありゃしない。
「ここのラーメンすごく旨いんだよ。静流がこないだの飲みのお詫びに教えてくれた」
酔い潰れて奢ることが出来なかった事を悪く思っていたらしい静流が、翌日メールで最近噂になっているラーメン屋としてここを教えてくれたのだ。
静流の紹介と言う言葉にレオンは一瞬だけ眉をひそめたが、彼の流行追跡能力は認めているらしく、「なるほど」と納得してくれた。
「ご主人様は、ここに来たのは初めてで?」
「いや、昨日来た。実際に食べて旨かったから、レオンも連れてこようと思ってね」
「わざわざ私を誘ってくれるとは……」
「そりゃ誕生日だからね。本当はこのくらいじゃ足りない」
そう。
今日は7月18日。レオンの誕生日だった。
この執事への恩を考えると、今言った通りラーメンを奢る程度では全然返せないほどだ。それでもここを選んだのは、TVの美味しいラーメン屋特集を見たレオンが「たまには美味しいラーメンが食べたいですね」と言ってたのを覚えていたからだ(まあそれでも返せるとは到底思えないけど)。
そんなことはつゆとも知らないレオンは、私の言葉にいちいち大げさに感動のリアクションを決めている。あーもう、客がこっち見てるの気づいてないんかね。
「騒いでる暇があるなら注文する。ほら、メニュー」
「はっ、そ、そう言えばそうですね!」
私が声をかけると、ようやく正気に戻ったレオンがメニューに目を落とす。紙面を一番取っているのは人気メニューの「昔懐かしラーメン」だ。確かとんこつ味のはず。レオンはその昔懐かしラーメンが気になったらしい。目が釘付けになっていた。
メニューを返されて、私も目を落とす。私が昨日食べたのはその昔懐かしラーメンなので、次に気になってた野菜味噌ラーメンを選んだ。ラーメンだけじゃお腹空くだろうし、餃子もついでに頼むことにした。
「しばらくお待ちくださーい」
店員を呼んで注文すると、後は待つだけの時間になる。
レオンは着慣れていない服がやっぱり気になるのか、またそわそわと袖とかを見始める。いい加減慣れろと声をかけたら、「いえ、そういうのではなくて」と返ってきた。
「ご主人様がこれくらいじゃ足りない、みたいなことをおっしゃられてたのが気になって」
「……ああ」
心の中で呟いていたつもりだったが、どうやら独り言として口に出ていたようだ。
「何だかんだ言っても、あんたにはいろいろ世話になってるし、何より大きな恩が2つもあるからね」
「2つ?」
「旦那を父さんの墓に入れてくれただろ」
「……ああ」
恩の1つを話すと、レオンは納得したように手袋をはめていない手を叩いた。
高塔ほどではないが、うちの一族も結構一族の結束は固い。放逐された「出来損ない」や「はみ出し者」は、もう二度とその敷居をまたぐことを許されない。何より一族でも何でもない私の旦那は、旦那の親族の墓に入れろと一蹴された。
そこを何とか一族の墓に入れてほしい、と周りに説得して回ったのがレオンだった。
「先代もご主人様の旦那さまを入れることに賛同していたのですよ。せめてここに入れて寂しくないように、と」
今思えば、父は先は長くないと気づいていたのだろう。だから、旦那を招いたに違いない。ここにいれば、いつかは私も帰るから。
「あの時私は喪主とかで、墓とか考える余裕が全然なかったからねぇ」
旦那が死んだと電話を受けてからは、嵐のように全てが過ぎていった。気づけば私は喪服を着てあの人を送り、また気づけばあの人のいない家で座っていた。
墓やら遺産やらの問題に向き合えたのはいつだったか。
ようやく手を付けようと動き、そのことを尋ねた時の「もう終わりましたよ」に、どれだけ寂しさを感じ……そして救われたか。
「これだけでも、私は父さんやレオンに頭が上がらなくなったんだ」
「そんな滅相もない」
「本当さ」
私が笑っていると、頼んでいた餃子が滑り込んできた。
餃子を食べていると、同じく頼んでいたラーメンがやってきた。同タイミングで来たので、私たちはこれまた同タイミングで割りばしをつける。
麺を咀嚼し、スープをすする。一緒に乗っているメンマやチャーシューも口に入れれば、店主自慢の味が口の中に広がった。
「うん。旨い」
「ええ。スープもさることながら、麺が極上です。具材を邪魔せず、かといって主張しすぎていない。スープに合わせて調整したのが解ります」
レオンのグルメレポートも絶好調。私はそこまで味覚が鋭くないので、「こっちの味噌も絶品だよ」とどうとでも取れる感想を述べた。
ラーメンだけでない。餃子も中身はぎっしりで、一口かじれば肉汁も飛び出してくる。少し冷めてても美味しさが変わらないであろう味だ。
「値段もお手頃ですし、これは噂になるのも解りますね」
「だね。この旨さに慣れると、他のラーメン屋のラーメンが物足りなくなりそうだわ」
「確かに!」
2人でからからと笑い合う。
そんな感じでラーメンを食べ終えると、思い出したかのようにレオンがぽんと手を叩いた。
「そう言えばご主人様、私への恩のもう1つって何ですか?」
「……」
覚えてたか。と言うか、聞き逃してなかったか。
この話に関しては人のいる場所では話しづらい。内容がそれだけデリケートなのだ。車で来たなら車の中で話すんだけど、あいにく今日は徒歩で来た。
言うか言わざるか少し悩み……言うことにした。
「子宮を取る話になった時、賛成してくれたのはあんただけだったね。レオン」
もう10年ぐらい前の話。
子宮筋腫による体調不良が酷くなり、婦人科の医者からも「子宮を取ることも考えた方が良い」と勧められた。薬や手術で筋腫だけ取るにしても、限界があると。
当然、周りからは反対された。子宮を取る、それは子供が産めなくなるのと同意義だからだ。
さすがのこれには父も言葉を濁し、それとなく筋腫を取るだけにしておけと言われた。これも当然だろう。資産家の一族において、跡継ぎの産めない女にどれほどの価値があるのか。
旦那と何度も相談した。今後の事、子供の事、自分の意思の事。何日も、話し合いは続いた。そして出した結論は、子宮摘出。
誰もが賛成しないだろう。その上での結論だった。しかし。
「あんただけは必死になって父さんを説得した。子供を産めても私に何かあったら元も子もない、とにかく今の跡継ぎである私の事を尊重すべきだってね」
「……そうでしたね」
父すら賛同できなかった子宮摘出に、何一つ反対せずに私を応援してくれた。今はとにかく、自分の身体を大事にしろと励ましてくれたのが、レオンだった。
たった一人でも自分たち夫婦の結論に賛成してくれたのが、嬉しかった。自分たちの考えが間違っていないんだと、自信を持てた。
摘出手術をしたのが、それから1年後。すっかり体調も良くなったのを誰よりも喜んだのも、レオンだった。
「あの時のレオンは、まだ父さんの執事だったのにね」
「先代も迷っておられました。だから、私が後押しするしかないと思ったのです」
なるほど。
家か娘か。今となっては確認できないけれど、父も悩んでいたのか。
……ともかく。
「まあそういうのもあって、あんたには大きな恩が2つあるわけさ」
「ご主人様……」
レオンの目がうるうると潤んでいく。大げさな奴だ。
さて、話はおしまい。ラーメンと餃子も食べ終えたし、そろそろ店を出るころだ。
「そろそろ出る?」
そう聞くと、レオンもにっこりと笑って頷いた。
会計を済ませ、外に出る。まだ日は高く、人々の歩みものんびりだ。
「また食べに来ようか」
「そうですね!」
私たちは帰る家――仮面カフェへの道を歩き出した。