さよなら、大好きな人

 螺旋の塔からサバタだけが戻ってきたのを見た瞬間、言いようのない悪寒がリタの体を走り抜けた。
「サバタさま!」
 満身創痍という言葉がぴったりな状態のサバタに駆け寄り、その体を支える。出血はそれほどでもないのだけが唯一の救いか。
 ザジが慌てて回復薬を取りに行く間、リタはハンカチで汚れをふき取りながら詳細を聞くことにした。
「いったい何があったんですか?」
 コップに組んだ水を差しだすと、サバタは煽るように一気飲みした後、苦々しい顔のまま答える。

「ジャンゴが……闇に堕ちた」

「え!?」
「何やて!?」
 リタだけでなく、回復薬を持ってきたザジも驚きの声を上げる。
 ジャンゴが闇に堕ちた。それはつまり、完全なヴァンパイアとなってしまったということだ。あれだけ前向きで、芯の強かったジャンゴが……。
「イモータルの誘いに乗ってもうたんか」
 ザジが回復薬を手渡しながら、厳しい声で聞く。その声色に怒りだけでなく失望と絶望が入り混じっているのを、リタは聞き逃さなかった。
 失望と絶望。
 イモータルどころかヴァンパイアを完全に浄化できるのは一部の者のみ。その一部の者であるジャンゴがイモータルの手先になってしまったとしたら、もはや人間たちに抗う術はない。
 サバタもそれは重々承知なようで、苦い顔を決して崩すことはない。彼もまた、諦めがにじんでいる。
「リンゴの体を乗っ取ったのも、元々はジャンゴを狙っていたのかも知れんな」
「そんな……」
 確かに父親に噛まれて半ヴァンパイアになってから、ジャンゴは常に苦しんでいた。リタなりにそんな彼を支え、応援していたつもりだったが、その想いは通じていなかったのだ。
「ジャンゴさま……」
 恥ずかしがらずにもっと彼に近づけば良かった。もっと彼の心に寄り添えるよう、声をかければ良かった。後悔だけが頭を占めそうになる。
 だが。
 泣いたり後悔だけしている場合ではない。ジャンゴはもう自分たちのもとに戻ってくることはない。それでも、自分たちは生きている以上やらないといけないことがあるはずだ。
 自分に発破をかけるように、ぴしゃりと自身の頬を叩くリタ。例え何があろうとも、いつも心に太陽を。それは師匠をはじめとしたいろんな人たちから教わった大事なことだ。
「リタ?」
 サバタとザジは、そんなリタの前向きさが逆に気になったようだ。そんな二人を元気づけるように、リタはにっこりと笑った。
「私は大丈夫ですよ。例え何があっても……」
 目を閉じる。
 頭に浮かぶのは、太陽樹とジャンゴのいろんな顔。怒った時、悲しい時、楽しい時、そして……。
「いつも心に太陽を!」
 ……ジャンゴの笑顔。

 びゅう、と冷たい風が吹く。
 空は厚い雲が垂れ込めているため、ちょっとした風では動きそうにない。完全な曇天だった。
 確か兄弟が螺旋の塔に乗り込む時は晴れていたのだが、あっという間にこの天気。ジャンゴが堕ちたことと関係あるのだろうか。
 と。
 螺旋の塔の方から、人影が歩いてくるのが見えた。そのサイズは大人というより……。

「ジャンゴさま……」

 マフラーが変化した特徴的な翼、バンダナが変化したマスク、青白い肌。間違いなく、ジャンゴだった。
 黒ジャンゴ――今はヴァンパイアジャンゴと言うべきか――は、何も答えない。マスクの下の目に、自分は映っているのだろうか。
「ジャンゴ」
 隣のサバタが声をかけるが、ジャンゴは何も答えない。
「ジャンゴさま!」
 リタも声をかけるが、同じく何も答えない。顔を動かすことすらなかった。その代わり、剣を構えてくる。
「「!」」
 慌てて構える二人だが、それが一種の隙となってしまった。
 ジャンゴの剣が閃く。闇の輝きを持った剣は、正確にリタとサバタの間を切り裂いた。当然だが、リタもサバタもちゃんと回避している。
 様子見の一撃から、本気の一撃。横薙ぎに対してはサバタはバックステップで、リタは大きく垂直に飛ぶことで避けた。
 ジャンゴが舌打ちする。表情は解らないが、明らかにこっちに敵意を向けている。

「何で僕に歯向かうのさ。人の気持ちも知らないで」

 完全にこっちを非難する一言だった。
 それが堕ちた故の言葉なのか、それとも元々抱えていた本音なのかは解らない。もし後者だとしたら、自分たちはどれだけジャンゴの心に近づけていなかったのだろうか。
 ただ、それは我儘だとリタは感じた。
 例えサバタやリンゴであっても、ジャンゴの心のうちすべてを理解できたとは思えない。
 イモータルがどうジャンゴを誑かしたのかは知らないが、この言い回し方から察するに「僕は君の理解者だ」とでも言ったのだろう。リタは悪辣なイモータルに怒りが湧いてきた。
 暗黒銃を構えようとするサバタを制し、リタは一歩前に出る。
「ジャンゴさま」
 静かに呼びかけると、ジャンゴは少しだけリタの方を向く。
「貴方は先ほど『人の気持ちも知らないで』と言いましたね」
 ジャンゴは答えない。

「私は、貴方が好きです」

 ジャンゴが堕ちる前はあれだけ言えなかった言葉。なのに今はそれがすんなりと言えた。
 目の前にいるのがジャンゴではない、というわけではない。目の前にいるのは自分が今も愛しているジャンゴだ。
 だからこそ、言えた。彼の過ちを指摘し、眠らせる。それが今、自分ができることだからだ。
 当のジャンゴの表情は解らない。驚いているのかいないのか、聞き流しているのかすら解らない。
「ジャンゴさまは私の気持ちに気づいていましたか? もし、解らないというのなら、貴方も私の気持ちを知らないし、知ることができなかったんです」
 まだジャンゴは答えない。
「お互い、言わなければ解らないんです。だから私は今、言いました」
 まだジャンゴは答えない。
「だからジャンゴさまも、言ってほしいんです。言ってほしかったです」
 もう一歩、前に出る。
 まだジャンゴは答えない。……答えることができない。
「さようなら、ジャンゴさま」

 ――なぜか、目の前のジャンゴが少し歪んで見えた。

 大地を強く蹴り、一気にジャンゴの元まで詰める。その速さは、まさに光。
 後ろでサバタが息をのむのを耳にとらえつつ、リタはその勢いのまま拳を突き出した。
「ふんっ!」
 気合一閃。その拳はジャンゴの腹を正確に捉えたが、ジャンゴは大きく吹っ飛ぶぐらいでクリーンヒットには程遠かった。
 無理もない。イモータルやヴァンパイアに効果的な一撃を加えられるのは、太陽の力を扱える者のみ。ただの物理攻撃では相手をひるませるので精一杯だ。それはリタも重々承知のことだ。
 それゆえ、ストレートを打ち込んだ後は回し蹴りでさらなる追い打ちを狙う。
「おらぁっ!」
「くっ!」
 さすがに二度目の攻撃を食らうつもりはないようで、ジャンゴも剣で捌く。両刃の剣なので、革靴が切り裂かれた。
 サバタが後ろから暗黒銃で援護し、ジャンゴの攻撃を鈍らせてくれた。おかげでダメージは最小。リタは一旦後ろに下がる。

 リタは最強だとジャンゴは笑って言っていた。
 サバタは最初冗談だと流していたが、なるほど実際に見ると確かに自分たちより場数を踏んでいるような強さがあった。
 よくよく考えればそれも当然だった。アンデッドやヴァンパイアが蔓延るこの世界で、彼女たちは太陽樹を育てている。生半可な強さではできないことだろう。
 そして何より、彼女は心が強い。
 最愛の男が敵となった今でも、彼女は自分たちを鼓舞し、こうして立ち上がっている。自分たちは諦めかけていたというのに。
 いつも心に太陽を。それは彼女の口癖だが、彼女は本当に心に太陽を持っている。だからこそ、立ち上がれたのだ。
(ジャンゴは本当にいい奴に好かれたな)
 兄の気持ちで、サバタはジャンゴの方を見る。
 彼は、今どう思っているのだろうか。

 ジャンゴが飛び込んでくる。
 今度は剣ではなく素手。鋭くなったソル・デ・バイスがリタを襲うが、彼女は冷静にその手を受け流した。
「はっ!」
 ジャンゴがさらに攻めてきたので、リタはさらに受け流そうと構えるが、あと一歩のところでジャンゴが大きく飛んだ。
「!?」
 一瞬どこに飛んだか解らずに構えを解きかけてしまう。当然、それは隙につながってしまった。
「後ろだ!」
 サバタが声をかけるのと同時に暗黒銃を撃つ。リタが振り向いた時は、ジャンゴが大きく吹っ飛ばされていた。
 相手の血を吸いとるチェンジ・ウルフ。確か血を吸うためには、背後を取らなければいけなかったはずだ。
 攻撃が不発だった故に、ジャンゴが距離を取る。サバタが追い打ちをかけるが、弾が当たる前にジャンゴの体が消える。そして足元を何かが走り抜けた。
 今度はチェンジ・マウスで奇襲を仕掛けるつもりらしく、足元を走り回ったかと思うと低空ジャンプで飛び込まれた。
「しゃあっ!」
 再度ソル・デ・バイスによる攻撃。今度は避けきれずに、左腕が大きく引っかかれた。
 浅いながらも血が飛び出すが、リタはそれに揺らぐことはない。痛みをこらえつつ、足を振り上げてジャンゴの腕を狙う。ジャンゴが腕を引いたので攻撃はかすった程度だが、リタにとっては十分な一発だ。
 しかし。
 だん、と大きく踏みしめての正拳突きは、ジャンゴが消えたことでかわされた。今度は蝙蝠に変身するチェンジ・バットだ。
「! 上!?」
 蝙蝠が高く飛んでいくのを見て、またチェンジ・ウルフを狙っているのを察した。
 捕まえることができないくらいに高く飛ばれた以上、地上で迎撃するしかない。サバタもそれを悟って暗黒銃を撃ちまくった。
 こちらの思惑通り、蝙蝠の動きがほぼ固定された。
「よしっ!」
 確認したリタが大きくジャンプ。蝙蝠を鷲掴みにし、思いっきり地面に叩きつけた。

 ごぅっ!

 凄まじい音とともに、大地がめくりあがる。黒い何かが飛び散ったように見えたが、実際に何かが飛び散ったわけではない。
 そしてリタが自らの力だけでそれを成したわけではない。それこそ、彼女が信仰するガイアの守護によるものだ。
 死者不死者関係なく、全ての生命は大地に還る。その真理を逆に利用することで、ヴァンパイア化したジャンゴに大ダメージを与えたのだ。大地の祝福を知り尽くしているリタだからこそできた隠し技だ。
 めくれ上がった部分ががたりと揺れる。おそらく、その中心部にいるであろうジャンゴが動いたのだろう。
 リタはジャンゴに近づく。
 中心部にいたジャンゴはチェインメイルがボロボロになっており、マフラーやマスクも欠けている。
「ジャンゴさま」
 呼びかけると、欠けたマスクの奥の赤い目が動いた。
 口が開く。

「ごめんね」

 それは。
 ヴァンパイアジャンゴではなく、リタたちが知る太陽少年ジャンゴとしての言葉だった。
「何も話さなくて、ごめんね」
 赤い目から涙が一筋こぼれる。
 体は完全に堕ちてしまったが、心は戻ってこれたのだ。

 ……だが、それは長くない。

 ジャンゴの腹に大きく穿たれた穴。
 それは確実にジャンゴの生命力を急速に奪っていた。
「ジャンゴさま……!」
 リタが徐々に冷たくなっていくジャンゴの手を握ると、彼はリタの方を見てうっすらと微笑んだ。
「僕も、リタのこと、大好きだよ」
 ジャンゴの最後の笑顔に、リタはとうとう涙を流す。流してしまう。
 隣のサバタは何も言わない。ただ無言で死にゆく弟を見続けるだけだ。
「ありがとう。好きになってくれて」
 万感の思いが籠った最期の言葉が、リタとサバタの心に深くしみていく。涙は出るが、悲しみだけではない。
「私も、ありがとう。ジャンゴさま」

 

「ちぇっ」
 影は口先だけ残念がる。
 いっぱいいっぱい愛でてやろうと思ったのに。たまにいじって遊んでやろうと思ったのに。
 お涙頂戴の三文芝居の果てに、可愛いおもちゃは消えてしまった。
「つまらないなぁ」
 もう面倒だから、全部滅ぼすか。
 影は一つあくびをしてからのそのそと蠢いた。

 ――無表情のまま無の拳を振り上げる巫女の存在に気付くことなく。